約半世紀の人生を振り返り、〝あのときこうしていれば……〟という出来事がいくつもあります。これまでの私にとって、〝選択〟の際の最優先事項は自分自身の意志ではなく、父親や周囲の思惑でした。そして、両者の落としどころを見つけて〝それが最善である〟と信じ込み、実行できる(多少無理があってもする)ことに神経をすり減らしてきました。
その結果、〝選択〟の誤りが、環境の不一致や人間関係の軋轢を生んできました。
研究をしたくて就職か進学かで悩んだ時も、父親がどう思うかを気にして、自分の意志は宙ぶらりんだったことが今ならわかります。進学はしたものの、指導教授との関係に大きな問題が生じて、以後十年間も研究を封印することになりました。
ずっと私は、指導教授が悪いと思っていましたが、それは誤りでした。何事も自分が悪かったのです。自分が何を本当にしたいのかわからないまま、父親の思惑にもとらわれて、中途半端な気持ちで進学した罰が当たったのだと思います。ーー先生だって、そんな学生に無駄な時間をかけたのは迷惑だったはずだと、今になって猛反省しています。
最近、論文を書くために必要な文献を求めて、母校の図書館に足を運んでいます。今日、図書館の前で見覚えのある方が歩いて来ました。何十年も経って、髪に白いものがたくさんまじり、足も弱くなられていましたが〝先生〟だと気づきました。少しためらいましたが、声をかけて挨拶をしました。私のことを覚えていらして、今何をしているかもご存じでした。
しばし立ち話をしてお別れしました。〝ああ、わだかまりなくお話できてよかった〟とその時は思ってほっとしましたが、時間が経ってからふと気づきました。ーーああ、御礼を言い忘れているじゃないか!
事実、先生のおかげで私は、この年になっても続けられていられるだけの研究の基礎を身に着けることができたのです。そして、これは詳しくお伝えしなくていいですが、進学先でしっくりこない研究を続けなくて済んだから、時間はかかったものの、自分が本当は何をしたかったのかがわかって、それに取り組めてもいるのです。
退官まで数年ということでしたので、その時には感謝の気持ちを手紙ででもお伝えできればと思っています。
まだ何人か、謝罪と感謝をしないといけない人たちがいます(まだ、気持ち的にそこまでには至れないという人も何人かいるのですが……)。もはや人生も終わりが見えてきて、できれば全感謝で終わりたいと願うのです。
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