私には〝できない〟ことがたくさんあります。運動とスポーツ全般、ダンス、音楽(歌を歌うことを含む)です。正直、興味がない(ダンスや音楽については、好きでもない上にする必要をまるで感じない)ということもあると思いますが、学校ではほぼ強制でしなければならない科目や取り組みとして存在します。そのできなさと言えば、まるで理解できなかった数学・物理並みでしたが、数学・物理とは違うのは、どのくらいできないかが周囲にバレてしまうことです。恥ずかしいし悔しいので、本当に嫌いな科目と取り組みでした。
運動や芸術の能力などというのは(数学・物理も同様)、正直なところ遺伝レベルで決まるのだろうと考えています(かなり売れている新書の著作で読んだことがあります)。しかしながら、私の友人の中には〝それは違う、環境のせい〟と言う人もいたりします。確かに、私の家庭はあまりそうしたことを強く奨励はしはしなかったとはいえ、それでも、ひととおり体操や水泳、ピアノの教室に通ったりもしましたし、小学校の時に引き算ができなくて親から泣くほど叩き込まれたこともあります。それでも、一定以上は伸びませんでした。どういうことなのでしょうか。
なぜこんなことを書いているかというと、たとえば霊的な力や不思議な体験ができる人というのは、小さい頃からそういうことができたし頻繁に起きていたという人が多いようですし、最初からはなかったという人も、急速にものすごい段階に到達したりしているので、これはもう最初から決まっていることなのだと私は考えているのです。ーーそうやって、多くのことを諦めてもきました。これは、間違ったことなのでしょうか。私にはわからないのです。
ただ、その中で諦めたくないなということは私にもあります。〝本当のこと〟が知りたいのです。世界の真実というか……。だから、書物を読み続けていますが、書物には書いてなさそうなのです。それである本を読んで〝これだ〟ということを著者に直接質問をしましたが、結論としては、やはりその方などは出自も業績も活動の数々(社会的な面でも霊的な面でも)も、まるで私などとはスタートから違うのです。
そして、その後しばらくしてネットで見つけた〝別ルート〟がそうかと思ったけれども、その方もやはり全然別の世界の人だったのだと思いました。私が昨日の記事で、電車の中にまるで違う世界に住む人たちが同じ場所にいた不思議な感覚を書き留めておきましたが、彼らからしたら私のような人間こそが、電車でうつむいてスマートフォンを見ている人なのではないかと思います(ずっと画面を見続けるだけの人だったらよかったのかもしれませんが……)。
社会の変化を身近に感じた一日
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post.html
こうした界隈では、私がかつて体育の授業の時に体験したような、悔しくて恥ずかしい思いをするのは当たり前のことなのでしょうか。いや、体育や音楽やダンスなどと違って、学校のように強制させられなければしなければ良いことをできるようになりたいと望んだこと自体が、してはいけないことだったのでしょうか。
諦めたくはない、そうであれば、方法と指導者を選ぶしかないということになります。しかしながら、それが私の望むところに至るか否かはわかりません(できないことはできない、一定以上にはならないというのは、教育の現場で体験してきた残酷な事実です)。
〝できない〟のは、どういう現象なのか、あるいは、どういうことを意味しているのか、しばらく問い続けるしかないのかもしれません。それしか、愚鈍な自分にはできないのです。
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