私にはこれまでの人生に置いて、何を言われているのかまったくわからないということが、いくつかの分野や局面でありました。
小学生くらいまでは、運動や音楽といった面でいろいろ指摘されても、何が悪いのか、どこをなおせばいいのか、どうしたら先生が望むとおりにできるのかがわからず、今で言うと思考停止状態(身体もそれにともない緊張で動かなくなる)だったと思います。実のところ、今でも続いています。根本的にブチ切れているのだと思います。
真似するだけでいいものをと思われるかもしれませんが、それができないというか、よくわからないのです。何を言われているのかさっぱりなのです。絵画や書ならある程度できるのですが……。
しかしながら、運動と音楽、そしてそれ以上に〝真似する〟というのができません。したくないというのもあると思うのですが、できないのでしたくなくなります。そして、できないのはまずもってわからないからです。
中高生になると、数学と物理がまるでだめでした。授業は苦痛でしかありませんでした。数学か家庭科の選択というのがあった時に、迷わず家庭科にしました。料理や裁縫ならば下手でもできるので……(絵を描くのが好きだったので美術は少しだけ迷いましたが、美大に行くような人の様には描いたり作ったりできないとわかっていたのでやめました)。
大人になってからは、地方都市で働いた時の経営者一族の言動がまるで理解不能でした。彼・彼女らは、いろいろな成功者の真似や見栄えの良いことばかりしていました。
そう言われてみれば、オンラインのコミュニティでSNSの講座を受けて実践した時も、言われたとおり取り組んでいるつもりが、ダメ出しばかりで本当に嫌になってしまいました。何がダメなのか、言われていることがちっとも理解できませんでした。反発していたわけではないのに、居心地が悪くなっていくのが苦痛でした。
この現象とは一体何なのだろうと、こうした諸問題を指摘される度に考えさせられます。前世・過去世に関係がありそうな気もしますが、ただ、できないしわからないことに自分から首を突っ込んでしまった時は、やれそうな気がしたし、少なくともやってみたいと思った(最初思っていたのと実際は違っていたということもあります)のです。それがまた、我ながら頭に来ます。
では、できない・わからないと思わずに取り組み続けるのが正解なのか、嫌ならやめても正解なのか。そこで、それは自分には必要ないっていうことなのかもしれないという結論に至ったりもするのです。
だとしたら、かなり良い〝センサー〟ですよね。いや、本当のところはまったくわからないです。私はこういうことを知りたいのです(もう、おのれを擦り減らして、自己肯定感を低下させるだけの、他者からの押し付けだけは絶対にしたくないのは確かです)。