2024年3月25日月曜日

「物語」の力①

                             


 私のショートショートSFは、ある小説投稿サイトに気ままに作品を書きためているという感じです。その中で、特定の読者が応援してくれているものや、自分で〝これは!?〟と思ったものを、stand.fmにピックアップして、解説もしようと思って始めたのがこのチャンネルです。
 ※当初は音声配信スタンドstand.fmを並行して運営しておりましたが、所有している機器アプリ版が使用できなくなり継続を断念しました。

 私は長いこと古典文学関係の研究に携わっています(文法研究がスタートで、今も研究の起点は〝ことば〟にあります)が、最近、自分の目指すべきが歴史研究では無理であっただろうということと、さらには、文学研究であってもまだ〝足りない〟ということを、ぼんやりとながら考えています。

 歴史は好きです。最初は歴史学の学科に進むことを考えていましたが、受験の競争倍率等の厳しさから、志望を文学部に変えました。これは今になって思えば期せずして〝大正解〟でした。歴史学は「科学」を標榜して、信頼できると〝される〟記録類以外の〝事実〟を切り捨てていきます。これはもちろん悪口ではありません。しかし私には、ありもしない〝正しさ〟を求めて攻撃しあう人たちを、専門家からセミプロ、アマチュアの人たちに至るまで様々なメディア上で見てしまうことも多い分野であるため、足を踏み入れなくてよかったと胸を撫でおろすことが多いです。

 かといって、文学分野はそうではないかというと、〝研究〟とした場合に、作品からは乖離したさまざまな思惑が感じられることがあり、これでは作品を残した古人も浮かばれないなどと思うことがあります。

 あえていえば、伝承などを扱う民俗学分野には柔軟性や寛容性を感じることも少なくありませんが、しかしながら、「物語」は研究されることを望んではいない気がするのです。だからというわけではないですが、私も自分で〝書いて〟みています。そして、ネットワークの技術の発展により、手軽に自分の表現を発表できるSNSによって、多くの名もなき人々が無数の「物語」を発表しているのは、「物語」が望む本来のあり方なのではないかと感じるようになっています。

 作家名付きの有名な作品(特に近現代)の中には、その名前とともに強烈な自我というか自己承認欲求、あるいは、書いた本人はそうでなかったとしても、いつしか金という「欲」の強烈な匂いをまとい、めまいすら覚える作品があります(ひとつ断ると、最初から〝そこ〟狙いの個人発信者もいらっしゃいますね)。それに対して、作者未詳で語り継がれる古典文学作品の、無目的とすら思われる滅茶苦茶さや支離滅裂さに呆れる現代人である私たちが、それでもそんな「物語」の数々に惹きつけられてやまない魅力とは、一体なんなのだろうと思うのです。

 次回は、私の考える「物語」が持つ役割をお話ししたいと思います。

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