「物語」の力①
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post.html
前回の記事(「「物語」の力①」)では、「物語」が研究されることを望んでなどおらず、また、現在SNSで発信される名もなき人々の無数の「物語」には意味があるのではないかといったお話をしました。今回は、古典文学作品を例にとって、「物語」が本来持つ「力」について、自分の考えを述べてみたいと思います。
鎌倉末期から南北朝期の動乱を描く『太平記』は、全四十巻の長大な軍記物語です。楠木正成や足利尊氏といった有名な武将の戦いが書かれた作品であると知る人が多いと思います。ところが、全四十巻の中では、彼らが関わった以外の数多くの戦いと、そこで活躍したやはり数多くの武将たちが描かれます。
〝自分たちのご先祖の活躍を知りたい〟として、読み継がれた時代もあったということです。これは、自らのルーツとしてのアイデンティティ、家系的なDNAをたどるという側面での「物語」の役割だと考えられます。
一方で、各個人が輪廻転生的なテーマを癒すための「物語」の役割もあるはずだと私は考えています。『太平記』に登場するのは、有名な武将たちだけではありません。戦いの中で散っていった武士たち、戦乱に巻き込まれて非業の死を遂げた貴族や僧侶、庶民といったさまざまな人間の姿が語られています。私たちの前世・過去世にはいくつかのテーマがあり、輪廻転生の中でいくつかのテーマを何回もくりかえすと言われています。そうした時に、「物語」に登場するあらゆる人が、自分の前世・過去世の体現者であるのです。そして、特定の人物の「物語」によって自分がかつて抱いた感情が呼び起され(感情には「時間」がないとされます)、彼・彼女の「物語」を追体験し、未浄化の感情を昇華するのではないかと思うのです。
近現代の〝よくできた小説〟とは異なり、古典文学作品の登場人物やその展開、結末には不条理なものが多く存在する理由もそこにあると考えます。例えば、ある武将は、戦いにおいては忠臣として描かれながら、一方で、見境なく一般人を殺していた人物であったために地獄に落ちます。〝よくできていない物語〟には、こうした現代人には理解できない矛盾が堂々と語られます。
ーーしかし、我々の人生も〝よくできていない物語〟ではないでしょうか。はるか昔からくり返してきた不条理や矛盾を思い出させ、時には苦悩とともに反省したり、時には自分に正直になったりして、浄化するのが「物語」本来の役割であり、秘された力ではないのかと思うのです。だから、古典文学作品は読み継がれ、また別の場所では、無数の「物語」が作られているのでしょう。
ただ最近は、両者より大きな力で私たちの前世・過去世を浄化する役割を果たしているメディアがあると思っています。それについてはまた別の機会にお話ししてみたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿