前回、コンドウ十画先生の『スケルトンダブル』を紹介しました。
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/1-shonenjumpplus.html
上の記事では、主人公の荒川ヨドミを中心として、簡潔にその魅力についてお伝えしましたが、この作品には〝裏主人公〟が存在します。彼が決意のもとに行動を起こして発した言葉を、昨日の記事を書くので作品を読み直した際に再び目にして、はっとしました。
この先は「デュゲスの会」の目的ではない 多々良の目的でも 俺の目的でもない
※「デュゲスの会」は、作品の展開の上では主人公たちの側に対立し、〝裏主人公〟が属していた組織。「多々良」はその組織の代表で、すべての人類が「透明人間(スケルトン)」となる理想の世界を標榜し、計画性をもった無差別殺人によって「透明人間(スケルトン)」の存在を知らしめようと動き始める。
加害したものは討つべき敵としてその人間の人生に立ち塞がる 「誰の人生に組み込まれなかった人間」であろうとも 「名前を残したい」それを想った人間がいる
組織を作って代表になる人間の高邁な理想をはるかに凌ぐ、無数の人間(存在たち)の時空を超えた叫びに突き動かされるかのような衝動の重苦しさが漂います(〝裏主人公〟のこのセリフの少し前に、「デュゲスの会」に属しながらもその動機がまったく不明の人間がいましたが、彼女が主人公のヨドミに吐き出した言葉にも通じるところがあります)。
前世・過去世のヒーリングを受けたり、その問題について自分なりに向き合ってきて思ったのは、人間(もちろん「私」も含め)というのは、現代では考えもつかないような罪深い行いを積み重ねてここに至っているという事実について、いかに無自覚であるかということでした。そして、幾多もの生命を犠牲にしてでも、自らの生命を維持しようとする苦しみと悲しみの中で、無念の思いを抱いて散った人間が無数にあったことにも、初めて思い至りました。
現代社会を舞台とした作品で、漫画とはいえそのテーマを織り込むのは難しいことであると思いますが、『スケルトンダブル』の〝裏主人公〟は、自分の足元で〝無意味な〟生を終えたかつての同胞を「弔うため」のキャラクターであると同時に、人類の歴史においてまた、彼らと同じように息絶えた無数の生命たちへの〝鎮魂〟の役割を持たせているのではないかと考えました。
『スケルトンダブル』は、もっと評価されてもいい作品だとあらためて思いました。しかしながら、こうした残酷な真実を描く作品は、〝本当にこと〟を描くがゆえに、決してバズったりすることがないのも宿命なのかもしれません。
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