先の記事で、『徒然草』で語られるある有名な話を引用しました。
読了したから何かが起こると期待するのは違う
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/szsymphony.html
筑紫の「なにがしの押領使などいふやうなるもの」が「万(よろづ)にいみじき薬」というので、長いこと毎朝大根を二個ずつ焼いて食べていたという話です。ある日、「なにがしの押領使」の邸の警備が手薄だったところを狙って、敵対する人間たちが押し入ります。主人が危機的な状況に陥ったその時、「兵(つはもの)二人」が命がけで彼を助けます。その二人の顔に見覚えがなかった「なにがしの押領使」が素性を訪ねると、その二人は〝長年あなたが良いと思って食べてくださった大根です〟と言って消えたというのです。
「深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ。」
結果を求めることなく、ひたすら〝信じて〟継続すること自体の重要性を説いているとして、とりあげました。
前世・過去世の相談をしていただいている方に、『徒然草』のこの話を紹介したところ、驚くべきことを指摘されました。
〝これは大根も助けられていますね〟
野菜にも、人間だった前世があるのだそうです(補足ですが、人間にも野菜だった前世があることになります)。ーー「大根」たちは、「なにがしの押領使」に対してかつて行った行為に対するカルマを返したのだと、私は理解しました。さらには、〝野菜は食べられるのを嬉しいと思っている〟ということも伺っていたので、「大根」どれだけ「なにがしの押領使」に対するカルマあったんだよ!?……と、ひとりでツッコんでしまいました。
花は切られて与え、野菜は食べられて嬉しい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_19.html
私は古典文学を対象とした研究に取り組んでいますが、「大根」が命がけで戦う話などは、まっさきに研究対象としては切り捨てられます。〝科学〟であることを謳う歴史分野においては、切り捨てられる対象がほとんどです。思想や民俗・伝承の分野であっても、収拾して共通点等を整理することはできても、話自体の本質的な部分を扱うのは完全にアウトとなります。
しかしながら、書かれて残されているもののほとんどが意味がないとされて〝切り捨てられる〟ということの方が、異常だとは考えられないでしょうか。へそ曲がりの私は、大多数が当たり前とすることを当たり前で終わらせることができません(理屈と実感としては、私の考え方の方が自然だという思いがあります)。ーー学術的にはNGとされるテーマに取り組むことは、私の使命や課題ではないかと思う今日この頃です。
0 件のコメント:
コメントを投稿