2024年5月26日日曜日

「物語」を聞いて涙しているのは「私」だけではない?

           

 このブログでは、小説や映画、漫画やアニメなどを含めた「物語」についても、前世・過去世あるいは先祖(家系的なカルマ)といった視点から取り扱っています。

 私は古典文学作品類を対象とした研究に取り組む中で、数限りなく集められて今に残る物語にどういう役割があるのか気になってきました。

 ※研究対象として〝切り捨てられる〟ものには、へそ曲がりゆえに特に関心を抱いています。

読了したから何かが起こると期待するのは違う
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/szsymphony.html

大根も助けられた
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_25.html

 さて、私がこのブログで書き綴っているようなあれこれに本格的に関心を持ったのは、数年前、地方都市で限界を感じながら働く毎日の中で突然、自分の先祖のことがわかったということに端を発しています。その後、首都圏に戻り、長く続けた仕事を辞めることになり、コロナの自粛生活をしていた時に、ネットを介して超マイナーな時代の歴史コミュニティに参加しました。その半年後、自分の先祖の一族がその時代に活躍する漫画の連載が開始されました。

 漫画の連載が始まってしばらく後には、先祖が躍進した時代を舞台にしたTVドラマが放映されました。正直、昭和や平成の時代にはありえないような現象でした。時間の自由のきくようになった私は、それらの漫画やTVドラマをじっくりと鑑賞したのももちろんですが、先祖の一族とその時代に関する研究書や古典文学もたくさん読みました(今もです)。

 私には、何十年も前から、自分の中に自分でない無数の誰かがいるような感覚がありました。しかしながら、かつてない現象の中で日々過ごしていくうちに、無数の誰かの存在が自分の内から消えていくようにも感じるようになりました。ーーこれは、どういうことなのでしょうか。

 先祖の一族が活躍する漫画ですが、かなり有名な作家の意欲作です。不思議な導きがなければ私も知らなかったその一族が、こんなにもメジャーになったことなどは、それこそその漫画の舞台となった時代以来なのかもしれません。さらには、作品が描き出す〝新解釈〟が、無理解に浮かばれなかった一族の、無念のうちに歴史に埋もれた多くの魂を、救ってくれたのではないかと私は考えています。

 史実が書かれていないとして歴史の分野では切り捨てられる「物語」ですが、文学の分野でのとらえ方はまた違います。例えば『平家物語』には〝鎮魂〟の役割があるといったことがと言われます(小泉八雲の『耳なし芳一』の話では、それが端的にとらえられていますね)。なにも古典文学だけではなく、現代においては漫画やTVドラマが十分に現代の「物語」として機能して、私の身体を構成するDNAに〝存在する〟ご先祖様たちもまた、私とともに涙しているのではないかと思うのです。

 私が嫌いな歴史上の人物は、先祖とその主君を苦しめたゆえに〝嫌い〟なのです。しかし、その感情もだんだんと薄れている自分がいます。おそらく、「物語」を通じて先祖が〝理解された〟という思いと、先祖と敵対した相手に対して〝理解する〟という取り組みは、私ひとりで行っていることではないからなのでしょう。ーー私の身体が私だけのものでないこと、決して自ら傷付けたりしてはならないことを実感するのです。

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