解決が見られないと言ったものの、実は、考える材料というのはどういうわけか次々与えられています。YouTubeのフィードに上がってきた動画、カバンに入れておいて電車の中で開いた本のページ、仕事で目にしたあれこれ……これでもかと、まるで誰かが必死に伝えてきているようです。
現在、何を選択して続けていくのが正解なのかで悩んでいます。結論は出始めていますが、不安もあります。長く続けた仕事を辞めた時以来の状況かもしれません。
ただ、問題があります。真実に至るために、どこまでどのように先達者の導きが必要なのかということです。あまり大きな声では言えませんが、私はあまり指導者に恵まれませんでした。つまり、人生で〝いい先生〟に出会うことがあまりなかったのです。
余談ですが、先生に対していい思い出がなかったのに、それでも学校の教員になったのは、父親の思惑や周囲の期待に反するのを恐れたというのが大きな理由です。しかしそれであれば、自分がかつて先生はこうあってほしいと思った先生であるべきだとそれを〝演じ〟続け、結局、つぶれてしまった感があります(自己犠牲的なところがあったのは、教員の仕事とそこで出会う人間関係自体が、カルマの清算もあったからではないかと今は考えています)。
話を元に戻します。五年くらい前、ひどい人間に師事しようとしたことがあります。相当に下劣な人間でしたが、私自身が当時〝欲〟と〝不安〟に満ちていて、その人間は私のその部分を刺激すればよいだけだったのでしょう。こうも簡単にひっかかったのは自己責任だと思います。その時の嫌な思いがあった(お金もかなり失いました)ので、押し付けと考える余地を与えないやり口には相当な拒絶反応があります。しかし、先にそうだと思ったのに違うこともありました。ーーその違いを考えてみると、他人を馬鹿にしているかとか、必要以上の金を人から巻き上げているかとかいうあたりになります。
かつて嫌だと思った出来事というのも、すべてが必然で起きたことだということに納得されます。一方で、常識的な考えや態度を改めていかなければ、未知の世界には到達できないことも薄々わかってきました。一年前くらいにそれを指摘されて、望んだような新しい出会いがあったことを思い出しました。
私は本職の占い師の女性に占いを教わりました。コロナ前に私から連絡をとって再会しましたが、コロナが始まって、占術や顧客獲得などに関する様々な考え方の違いが生じて、袂を分かちました。ーーその時はとても悲しかったです。しかしながら、長いこと相談をしているヒーラーの方からは、私の方が成長してしまったからだと言われました。
一年前くらいにある方から指摘を受けたことは、言われたことの半分もできませんでした(自分ではがんばったし、周囲の人からは少し呆れられもしました)。できていないことを、何らかの力で迫られているような気がします。ーー本当にできるのか。いや、できるできないではなく、しなければならないのかもしれない。そうできるような偶然も重なっていますし、もしかしたら、これまでもそうした働きかけはあったのだけれども、気づけなかったのかもしれないと思うこともあります。
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