人には理解できない物事を〝怖い〟と思う人があるのと同じように、それが〝できない〟と思うのにも、前世・過去世が大きく影響しているのではないかと思い始めています。
〝できない〟というのは思い込みであり、すべきことを〝できない〟という理由で放棄するのは、他者から非難されるべきことなのでしょうか。そんな疑問を、六月中旬頃よりずっと抱いています。
できない
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自分に霊的な能力がないし、そんなものを身に付けることは〝できない〟という確信というか諦めを抱いていることについては、長く相談しているヒーラーさんから〝前世・過去世で、能力を持っていたことで嫌な思いをしているからではないか〟という指摘を受けていました。ただ、そんなことを言われたところで、自分のこととは思えないので聞き流していました。
私にはチャネリングの能力はありませんが、物事の整合性を考えるのは人よりも得意です。自分がネガティブな反応を示すことを列挙し、ヒーラーさんの指摘した内容とつなげられるのではないかと、最近、そう考え始めたのです。
仕事(や何らかの事業)において、組織(グループ)やその組織(グループ)のトップが持つビジョンの実現のため、私は自分の能力を使ってほしいという思いを強く持っています。しかしながら、組織(グループ)が望ましくない形で変容したり、組織(グループ)のトップが実はものすごい俗物であったり、私利私欲しかなかったりというのが判明した場合に、私は必ず叛旗を翻してきました。
確かに、現世の私が持っている能力はまったくもって現実の社会生活をする上で有用なものばかりではあるのですが、これを霊的な能力に置き換えれば、私が前世・過去世で体験した〝嫌な思い〟の正体がおぼろげながら見えてくる気がするのです。
前世・過去世のをいくつもチャネリングしてくださった方のセッションで最初に現れたのは、親に売られた寺で呪詛をしていたという少女でした。かなりの呪詛の使い手として育成は成功、世の中を知らなかった私は、寺の人間に言われたとおりに、多くの罪のない人を呪い殺していたというのです。
だまされたからといって、自分のしたことが許されることではないことはわかっています(このことを知ってからしばらく恐ろしい夢を見ましたし、この方をセッションを受ける以前から、私は害虫類がたくさんいるおぞましい部屋のいる夢などを何度も見ていました)。許されるはずのない身がこうして生かされていることには感謝の念しかなく、してしまったことをただただ詫びなければならないという思いしかありません。
一方で、セッションの最初に現れたこの前世・過去世は、かなり重要な意味を持っていたのではないかと、私は最近になってやっとそう思い至り、〝彼女〟のことをもっと知らなければ(思い出さなければ)いけないと思うようになりました。前世・過去世において、私の霊的な能力はおそらく、邪悪な方面で発揮されていたことが多いのではなかったのかと考えるのです。
しかも、自分ではそれを人に言われたとおりに、〝正しいこと〟と信じて行っていたのではないでしょうか(呪詛少女は、女だったゆえに、他にも不条理な目に遭っていたようです)。
最近、人柄が素敵なので視聴しているYouTubeのチャンネルの三択占いでも、スピリチュアル能力を開発するのはやめたほうがいいという結果でした。理由は、かつてその能力を他人にいいように使われ、もう懲り懲りだと思っているからだということでした。これも、私の突飛な考えを後押しするメッセージなのでしょうか。
確かに私は若い頃、嫌な相手に対して〝呪い殺してやる〟と思うことがたびたびありましたし、嫌いな人と口論になった後に天井からその相手の頭上に水滴が流れ落ちたりだとか、ひどい目に遭わせた相手の車のボンネットが爆発したといったこともありました(この人は、夜中に窓の外に女性がいるとか言っていたこともありました……)。
今の私には、霊的な能力にどのような種類があるかもよくわかってませんし、呪詛が霊的な能力であるのかということ、もしそうだとしても、その力をヒーリングのような人の役に立つ霊的な能力に変えることができるのかも、まったくわかりません。
そうであれば、〝できない〟といって拒絶するという反応になって当然なのではないか……これが、私の現段階での結論です。
呪詛少女は、自分のしたことを理解しているからこそ、〝できない〟という形で怯え、二度と過ちをくり返さないようにしているのであると、私はそう信じたいです。教育の現場にいた自分としては、罪を犯した少年・少女がその罪と向き合い、立ち直ることは容易なことではないことを身をもって知っています。ーーでも、できないわけではありません。
また、前世・過去世では、同じプロットをいくつも経験している可能性があります。日本の中世初期の少女ではない〝私〟が、同じように無数の過ちをくり返しているはずなのです。
〝できない〟という現象を見つめたところには、こうした真相を見出せそうです。しかしながら、その次に何をどうすべきかが、新たな課題として立ちはだかりました。
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