以前、YouTubeのある動画で、汚部屋であるほうが都合がいいから汚部屋でいる人がいるといった内容を語っている人がいたことを、ふっと思い出しました。詳しいことは忘れてしまったのですが、そこには親子関係において娘が汚部屋で母親がそれを苦々しく思うという関係が崩れない方が楽だからだといった背景があったかと思います。
第三者から見れば問題のある状態が、当事者同士はそのほうが安心できるという、確か共依存的な関係が見出されていたかと思いました。
※きょう‐いそん【共依存】《「きょういぞん」とも》依存症の一。特定の人間関係に依存する状態。自己の存在意義を認めてもらおうとして過剰な献身をくり返すなどの行為がみられる。DV(ドメスティックバイオレンス)を受けた女性が、「自分が至らないために起こった」と考えて暴力に耐え、人間関係を解消できないなどの例がある。〔デジタル大辞泉〕
なんでこんなことを思い出したかというと、自分はこれまでいろいろなことが〝できない〟とか〝認められない〟とかいったことに不満とともに強烈な劣等感を持っていることをこのブログでもたびたび触れてきたのですが、その心理の奥底には、実現してほしくないという思いが隠されているのではないと考えたからでした。ーー実現しない方が私にとって都合がいいこととは一体何なのか。それにメリットがあるとしたら一体どんな訳なのか。
もしそれらがあるとしたら、自らを弱者で被害者の側に置くことなのではないかというおぞましい理由は、考えうる答えの一つとなる気がします。ーーそれというのは、私が嫌悪する、社会活動家とかいう人たちのやり方ではないのか。
認めたくはありませんが、私たちがネガティブで過剰に反応する他者(組織や団体やイデオロギーも同様)の性質や行動というのは、自分では認めたくない自らの内に潜む都合の悪い何かであるといいます。
だとすると、自分を弱者で被害者の側に置くことと言うのは、(おそらく前世・過去世において)自分が強者で加害者であったことを隠蔽しようという後ろ暗い気持ちがあるのではないでしょうか。最低ですが、もしそれが事実ならば、自分の考えや行いが最低であって、最低を最低と認めないと進めないということになります。
卑怯なあり方を捨て、私は私のできることすべきことを自分のために、他者のために取り組むのだとしたら、一体どうしたらいいのか。結局どうあっても悩み続けるのものの、まずは、自分ではまるで自覚がない、むしろ正反対のものとして認識するネガティブで過剰なおぞましい何かを手放し、その代わりにこれまで経験したことない状況に自らで責任を取っていくことを、覚悟しなければなたないのだということではないでしょうか。
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