私は就職氷河期の最初期世代で、団塊ジュニアと言われた世代であるため、大学受験人口(センター試験受験者数)が最大という経験もしました。ただでさえ、押しつけの勉強が嫌いで苦手だったので、受験では軽く身心を病みました。
友人たちが最難関とされる学校に次々受かったのに自分はだめだったことが、本当に辛かったです。納得するまでに相当に長い年月を要しました。しかし、30歳前後で友人と私の人生や生活は、偏差値の序列のような形からはどんどん違うものとなり、半世紀を生きてさらにまったく違うものとなっているのを感じます。ーーいや、この歳になってから自分を振り返ってみると、周囲とはまったく違う個性の自分が、そこから逸脱しないようにと涙ぐましい努力をしていたことに気づかされるのです。時代や父親が許さなかったからだと、他人のせいにするつもりはないのですが、十代後半の大事な時期を無駄に過ごしてしまったのではないかと悔やまれることは多々あります。
当時、自分を真剣に見つめることもしませんでした。その方法がわからなかったというのもありますが、本来の興味は文学よりも思想などにあり(友人は、成績の良い科目から学問分野を探ったりしていたようですし、「倫理」の成績がよかった私はもう少し真剣にその事実をとらえてみるべきだったのです……)、担任の先生がすすめてくれた法学部が正解だったのかもしれないと思います。法哲学だとか法制史といった学問分野があることを知ったのは、つい最近のことです。そんなわけで、後悔先に立たず、人生はすべて〝自己責任〟です。
話は変わりますが、最近、素敵なイラストで展開する占いのYouTubeチャンネルを見つけました。この方の動画は、イラストとお話で心が穏やかになります。ご本人らしい写真も時々拝見せられるのですが、なんてきれいな人なんだろうと思いました……(光っているみたいなのです)。
お子さんの教育等にも関心をお持ちの様子で、下記で引用した受験に関する動画には考えさせられました。
本当に簡単に動画の内容を要約すると、その人が人生でするべきことから外れないように、志望校には受からない場合があるのだということでした。
ーー確かに、そうなのかもしれないと思いました。就職を見据えればあの大学この大学というのがあるのでしょうが、友人たちと同じような進路であったとしたら、今の私は受験の頃よりもさらに病んでいたかもしれません。なんといっても、大学で専門的な学びをしていなければ、日本の特定の時代の文献を原文で読むことなどできません。その点で、私が通った大学は最高の環境であったと考えます(今も、研究のために図書館を利用しています。しかも、家から大学までそれほど遠くありません)。
また、法哲学や法制史を学ぶといっても、近現代が研究対象でなかった場合は、まずはやはり当時の原文を読むためのトレーニングの方が重要です。だから、言語を最初に学ぶことになったのだと考えられます。しかしながら、本当の興味は言語ではなかったので、ここでひと悶着あったのですが……。
感謝して終わりたい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_22.html
面倒くさい人生だなと思いますが、取り組むべきことが人と大きく違うのであれば、仕方のないことです。そして、失敗や回り道だと思われたことが実はそうではなかったということにも気づかされるのです。
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