2024年4月30日火曜日

個別レッスン型の講座(一対一での対応への変化)



 長いこと学校での教育に携わってきた私が、その限界を感じて(それだけではないとは言いつつ)、現場を離れたことはすでにお話しました。

教育問題2024ー私の場合、あなたの場合ー
https://zarara1111.blogspot.com/2024/09/2024.html

 知識を伝達するだけであれば、大教室・大人数でも問題ないと思います(ただし、それを知りたいという目的が明確な集団であることが前提です)。

 しかしながら、ひとりひとりが持つ異なる個性と能力を見出して伸ばすということを目的とした場合は、やはり個別での対応なのだということを最近は実感しています。

 占いに関して言えば、起業塾の講師からすすめられて、不本意ながらも(占いを副業にするつもりはありませんでした)、スキルシェアサイトで鑑定をすることから始めました。当時はコロナでの行動制限が始まったばかりの時で、鑑定後に〝教えてほしい〟という人が多かったです。今思えば、収入源としての期待があったのでしょう(特に、サビアン占星術は珍しかったこともその要因となっているはずです)。

 起業塾の先生の継続的に指導を受けていた時期だったため、当初は予定になかった〝占いを教えること〟の是非を問うたところ、〝教えるべき〟と断言されたため個別で教え始めましたが、途中で辞めました(理由はいずれお話できたらと思います)。そのかわり、タロット・カードの図像や意味についてのグループ講座を開始、その後、占星術のグループ講座、読書会、勉強会という形で取り組みの幅を広げてきました。

 講座を受講される方が、学んだことをどう生かすかは自由にしてほしいというスタンスでしたが、自然な形で人を占ったり教えたりするようになった方もいらっしゃいます。その間も、個別に指導することについてはやんわりとお断りをしていましたが、そろそろオープンにしても良い時期がきたのではないかとも感じています。

 その理由の一つに、ここ半年くらい前世・過去世の相談をしていただいている方からの助言があります。その方は、講座であっても一対一で実施することが望ましいことを強調されます。いろいろな理由がそこには存在すると思われますが、お金や承認欲求の問題がらみで本筋を逸れがちになることは確かです。私自身、お恥ずかしながら、起業塾に入った動機はまさにそれでした(今は考えが変わっています)。

 また、教える内容によっては、特に前世・過去世といった問題は、大人数は言うまでもないですが、たとえ少人数であっても、複数を対象にするのはデリケートで難しい面があります。そうした意味でも、私個人が本当に教えるべきことを適切に教えることができるようになるまで、知識の面でも精神の面でも、ここまでの時間と経験が必要であったのかもしれません。

 現在、占いをはじめとする副業での人間関係の入れ替わりがあり、収入も減っています。ですが、それはむしろ〝順調〟であるとも言われました。ーーこうした、世間一般とは違う思考や感覚を受け入れるなどというのも、起業塾に入ったばかりの数年前の自分であれば考えられないことです。

 書かずにはいられずに書いているこのブログの記事を読んで、個別にお話してみたいという方が現れるのを待ち望んでいます。


 占いその他、個別でのレッスンに興味のある方(単に、お悩み相談等でもOKです!)は、下記リンクの「お問い合わせ」よりご連絡ください。

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2024年4月29日月曜日

根負けしてきた長い年月の真相

           

 私は本来、人から物事を強制されるのが苦手な人間だと思います。小さい頃から、多くの人が良いというものが良いと思ったことはあまりありませんし、自分自身の考えや好みを通したい子どもでした。

 しかしながら、家庭環境がそうした私の個性やあり方をよしとしてくれませんでした。特に父親がそうでした。ただ、いわゆる世間一般的な考えや好みの枠にはめるのであればまだよかったのですが、父親はかなり偏見や独善的なものの考えをするところがあり、小さい頃からそれを〝押し付けて〟きたところがあります。

 人生を振り返ってみれば、そのおかげで就職氷河期世代ながらも正規雇用での仕事に長年ありつけたところもありますし、さまざまな辛いことにも我慢して耐えてこられたところもあります。しかしながら、〝本来〟でないことには必ず歪みが生じます。この十年くらいは、父親が〝押し付けて〟きた価値観を明確にし、自分を取り戻すことに労力を費やす年月だったことを感じます。

 なんでこんなことを思ったかというと、つい先日、父親が自分の好きな食べ物を食べるように何度も何度も〝押し付けて〟きたことに対して、〝NO〟を出した自分を意外に思ったからでした(善意なのは痛いほどわかるのですが、とにかく〝押し付けて〟くるのがキツイです)。小さい頃から私は、その食べ物をすすんで食べることはしませんでした(好き嫌いはほとんどないのですが、唯一、酸味のあるものだけは食べはするものの、積極的に食べることができません)。そのことをやんわりと伝えたのです。

 読者の皆さんは〝そんなこと〟と思うかもしれませんが、そんなことすら何十年も自分はできませんでした。父親の言うことは絶対でした(父親はどういうわけか直観力にすぐれていて、私がうんうん考えて出した結論よりも、こうしろと言って〝押し付けて〟きたことの方がうまくいくことが多かったことも事実です)。

 娘のなのだし仕方ないという思いで何十年も過ごしてきました。父親との関係については、長年相談をしているヒーラーさんからもずっと指摘を受け、改善を促されてきた事項です。ある時ヒーラーさんは、〝女子というのは、かつては父親の持ち物(財産)でしたからね〟とおっしゃいました。

 その前後、私はブライアン・ワイズ博士の退行催眠CDを試していました。ヒーラーさんの一言で、その際に出現したビジョンの一つが符合するようなシチュエーションが浮かびました。戦国時代か何かに姫だった自分は、領主である父親の言うことに反してとった行動で、父の治める領地とそこに暮らす領民を奪われてしまったといったような記憶です(どうやらそこに、ツインレイらしい男性も敵方でからんでいるようなのです……)。ちなみに、私は惨殺されています。

 父親が異常なまでに〝押し付けて〟きて、自分を束縛する(同じ娘でも、妹に対する態度はまるで違っています)理由がこんな前世・過去世にあるのだとしたら、仕方がないと思う自分がいました。わがまま娘をわがままなままにして、すべてを失うのはもう懲り懲りですよね。それを思うと、申し訳ない気持ちになります。なすすべなく父親に従っていた不可解さも腑に落ちます。

 でも、もうこれは過ぎたことなのです。私はもはや一国の姫などではなく、現代においてはすでに成長し、父親の教育の賜物で、ふてぶてしいオバちゃんになりました。ーーこれからは、父親との新たな良い関係を築いていきたいと思います。

 ※CD付きの本は再版していないようです。

2024年4月28日日曜日

「断捨離」から始める

          

 前世・過去世のことを語っているブログで、「断捨離」のことを伝えようというのは、なぜだろうという人が多いと思います。

 コロナでの行動制限が始まって間もなく、ネットのグループセミナーで出会った方の一人に、断捨離の提唱者であるやましたひでこ氏より直接指導を受けている方がいらっしゃいました。その方とは、その後もずっと関係が続いています。まるで天気の良い日のお日様のような方です。……反面、これまでの人生について伺ったそのお話の数々はとても大変なものでしたが、それを微塵も感じさせません。

 そんな彼女の転機は、断捨離との出会いだったそうです。

 断捨離というと何でも捨ててしまうといったイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、それはどちらかというとミニマリストの方法論に近い気がします。断捨離は大変奥が深く、冒頭で紹介した彼女が開催するオンラインのイベントへの参加を継続して、理解を深めている最中です(よって、以下は現状での私の個人的な断捨離に対する見解だと思っていただければと思います)。

 上記で〝理解を深めて〟と記しましたが、断捨離は必ず〝行じる〟つまり〝実践する〟〝実行する〟ことがセットです。

 私の人生において、彼女との出会い以前に、断捨離に近いことをしていました。かつての私は典型的な〝社畜〟であり、〝ブラック企業〟で身心のバランスを著しく崩しても、経済的な不安や思考停止のままに仕事を続けていました。しかし、ツインレイらしき人と出会ったことで、雑多な物であふれ返る汚部屋が恥ずかしくなって、部屋の片づけを始めたのが最初でした。

 物の片付けに関する情報を本やネットも参考にしましたが、最も大事だったことは、〝自分の今の生活にとって不要〟と思われる物を見極めて、部屋の中から様々な形で出していくことでした。とにかく、物の総量を減らしていきました。

 断捨離に指導者として携わっている彼女のイベントに参加するようになってからは、〝自分にとっての必要〟とは何かの方に焦点を当て、それらを残してそれらだけを周囲に置くといった発想へと、少しずつ変化もしています。

 長く相談をさせていただいているヒーラーさんにそのことを話すと、私の場合、物と紐づいた思考や感情で無意識の中がいっぱいだったのではないかと指摘されました。
 ※このことを「無意識下のゴミ」と私は呼んでいます。

無意識下のゴミ
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_14.html

 実は、断捨離の指導を受けている彼女も同じ趣旨のことを言っていました。やましたひでこ氏は、〝断捨離をすれば無意識の方から立ち上がってくる〟といったことを、常々おっっしゃっているということでした(断捨離を始めたばかりの人は、やはりそのあたりで〝?〟となるようです。実践を通じての実感がともなって、初めて腑に落ちるのではないでしょうか)。

 こうした取り組みは、究極的にはおそらく本来の自分自身に戻るための「行(ぎょう)」であり、その過程で、無意識下に潜んでいる思考・感情を手放していくことになるのだと考えています。そして、「無意識下に潜んでいる思考・感情」には、実のところ時空を超えて存在する前世・過去世での未浄化のエネルギーといった類も多いのではないでしょうか。

2024年4月27日土曜日

【輪廻転生を体験する作品紹介】嶋木あこ『ぼくの輪廻』

          


 今回は、歴史つながりの友人から教えてもらった、嶋木あこ先生の『ぼくの輪廻』を紹介したいと思います。とある歴史上の人物への転生があると聞き、その人物がどんな感じで漫画にされているか気になって手に取ってみました。

 線のきれいなタッチで、胸の大きい女の子と眼鏡のイケメン君が登場して始まるこの作品、転生をテーマにしたありきたりのラブ・ストーリーなのかと思って、それほど期待はしていませんでした。ところが、実際に読んでみるとかなりぶっ飛んだ展開のギャグ漫画でした。

 空海の弟子である主人公の青年は、山奥で修行をした際に、胸の大きな村娘と知り合います。唐突な出会いで気持ちが騒ぐ二人の間に、主人公のことが好きで仕方のない仲間の修行僧が割り入ってきます。奇妙な三角関係はやがて四角関係となり、現代、そして未来に至るまで、輪廻転生がくりかえされます。

 この作品のギャグ漫画としての面白さは、個性的過ぎるキャラクターと、舞台となる時代時代の事件・事実を踏まえた設定の大胆さなのですが、輪廻転生の問題に関してもかなり斬り込んでいると感じています。

 ひとつは、輪廻転生が同じテーマを何度も何度もくり返すという点をしっかり描き込んでいることです。時代が変わり、性別が変わることがあっても(時には、誰かが人間でなかったとしても)、空海の弟子時代に始まった三角関係が終わりを迎えることがありません。たとえ演じる舞台や役が変わったとしても、何度も始まっては誰もが未完のまま人生を終えている内に、当初の純粋な思いや目的が執着に変わってしまっていく過程が描かれています(四角関係になったところで、それは三角関係を複雑にする要素でしかないという始末です)。

 もうひとつは、家系的な問題が途中でからんでくることです。私もこのあたりはまだ明確ではないのですが、血縁であった人物たちの記憶が自分にトレースされるような感覚が、漫画としてうまく盛り込まれていると思いました。身体に眠る先祖(たち)の記憶が、何かをやり残し、思いを残したような焦燥感となって突き動かされる感覚です。

 結果的に、主人公が三角関係のイレギュラーの要素となり(途中で参戦してきた四角関係の人物の執着度合いが、他の三人ほどでなかったといったことも影響したと思いますが……)、関係する人間たちがさまざまな呪縛から解き放たれることで、果てることのないように思われた三角関係は、意外な形で終結を迎えます。

 輪廻転生の「物語」にはいくつかのバージョンがあるようですが、少なくとも、『ぼくの輪廻』の登場人物たちの間で、〝主人公をめぐる三角関係〟がテーマとなったストーリーがくり返されることはないのだと私は考えます。なぜならば、本意を忘れて生じてしまっていた〝責任感〟や〝意固地〟や〝喪失感〟を手放し、曇って見えなくなっていた〝心から相手を好きである気持ち〟や〝幸せになりたい気持ち〟を思い出せたと思うからです。

 漫画は、我々の輪廻転生の記憶を呼び覚まし、浄化する力があるのではないでしょうか。共感できるストーリーを持つ漫画は、かつてあなたがたどり、今なおくり返している転生のテーマであるのもしれません。

2024年4月26日金曜日

願望や妄想だと思って当然なのですが……

                               

 ネット上のコミュニティで知り合ったある知人から聞いた話です。

 その方は〝普通の〟サラリーマンとして人生を送っていました。ところが、人生も半ばにさしかかったある日に突然、〝普通ではない〟道へと進む決心をして、今に至るということでした。ーー周囲は驚いたり呆れたりしたけれども、ご本人はどうしてもそうしなければならないという思いに駆られたそうです。

 前回、「かかわった人数が多い歴史上の人物は、時代を超えて根強く人々がそこに集まる」一例として、聖徳太子をとりあげました。

歴史好きでも踏み込みたくない時代
https://www.blogger.com/blog/post/edit/7872830779997509042/5669830568479236903?hl=ja#:~:text=https%3A//zarara1111.blogspot.com/2024/04/nhk%2D13%2Dhttpszarara1111.html

 冒頭で紹介した方も、聖徳太子と同じくらい有名な歴史上の人物(歴史ファンではない私の友人が、大好きだと言って、その有名人ゆかりの地に何度も足を運んでいるくらいです……)と深いご縁があったのです。

 その歴史上の人物と知人とは、霊能者にみてもらったところ、かつて師弟関係にあったということでした。別の霊能者にもみてもらったところ、やはり同じことを言われたそうです。ーーただ、あまりにできすぎた話なので、自分の願望が反映している(読み取られている)だけではないかと思うことがあるとおっしゃっていました。

 超有名人とのご縁だと、そう思っても当然に思われます。しかしながら、かなりマイナーな歴史上の人物や場所で同じような現象が起こっている私は、単なる願望や妄想で片づけることはできないと実感しています。マイナーな有名人への憧れだと、わざわざそこに行きつか!?という疑問がおおいに生じるからです。

 小学生が好きな歴史上の人物にしては、周囲の大人やクラスメイトに話すのにしても恥ずかしいし、まるで理由がわからず説明もよくできなかったゆえに、自分でも長いこと勘違いだと思い込んでいました。ーー何十年もたって、私も知人同様に霊能者にみていただいたことで、やっと確信に至ったわけです。

 最近は、スピリチュアルやオカルト系のYouTubeやブログでも、気になる歴史上の人物や時代というのは自分と縁がある、つまりは、前世・過去世で縁がある、といった情報が散見せられます。

 あまりに有名な人だから自分の願望や妄想ではないかといって否定することも、反対に、マイナーすぎて自分は少しおかしいのかと否定することも、どちらもが、前世・過去世での大事な縁とやり残したことを見過ごしてしまいかねません。ぜひ、無意識からの声に耳を傾けて〝思い出して〟ほしいと私は思うのです。 

2024年4月25日木曜日

歴史好きでも踏み込みたくない時代



 現在、NHKの大河ドラマは平安時代が舞台です。最初はあまり期待していませんでしたが、『源氏物語』をはじめ、当時の文学作品や記録類を踏まえたストーリー展開や小ネタがあり、また、まひろ(紫式部)と三郎(藤原道長)のあの関係性は〝ありえない〟と思いつつも、恋愛ストーリーとしては王道パターンという安心感(?)もあって、興味深く視聴しています。
 二人はソウルメイトなのだという設定を友人から聞いて、大河ドラマも時代の風を感じて変化しているのだなと思いました。

 しかしながら、大河ドラマは基本的に、戦国か幕末でないと視聴率が取れないということを聞いたことがあります。まあ確かに、今年の『光る君へ』は見ていない人もいるのかなと思いました。『鎌倉殿の13人』ですら、鎌倉時代の東国が舞台だというので、普段は熱心に見ているのにキッパリ〝見たくない〟とまで言った知人もいます。
 その方は男性で、戦国と幕末が好きだということです。

 歴史分野にかかわる人たちの態度に辟易することがあると、このブログの以下の記事で触れています。

「物語」の力①
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post.html

 私も小学生の頃から歴史が好きだったので、戦国と幕末はひととおり押さえています(昭和生まれはまずメディアがそればかりというのもありましたが……)が、そうではない時代の方が好きでした。特定の時代や人物への肩入れしているのは戦国・幕末好きと変わらないものの、TV番組や新書やムック類で、時代に関係なく面白そうなテーマはどんどん見ています。ただ、SNS(特にTwitterは過激で不快な投稿も多いというのを聞いています……)で、不特定多数の人とからんだりはしたくないという思いを年々強めています。
 過剰な反応を示したり、感情的に攻撃したりする人が相当数いるのを、歴史つながりの友人から聞くことがあり(実際、被害に遭っている友人もいます)、そんなのは一切御免こうむりたいたいからです。

 前世の問題でお世話になっている方に聞いたことがあるのですが、かかわった人数が多い歴史上の人物は、時代を超えて根強く人々がそこに集まるそうです。ーー日本の歴史で言えば、例えば聖徳太子などがそうだということでした(その逆で、私が特に好きな時代や人物や場所は、大人数に影響を与えていないから、ひっそりしているのだと言われました。……納得でした)。
 ただ、聖徳太子好きの人たちが、SNS上で攻撃しあっていたという話は聞いたことはないです(もしあったら、教えてほしいです)。

 話を戦国と幕末に戻しますが、両時代は活躍した有名な人物も多く、その有名な人物たちのもとで戦いに加わった人たちも多いので、恨みや憎しみ、怒りや悲しみといった感情が未浄化のままで前世を終えている人が多いのではないかと最近は考えるようになりました。
 ネガティブで過剰な感情的反応ほど、無意識下からの叫びである可能性が高いと
いうことです。

無意識下のゴミ
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_14.html

 正直に告白すると、私自身は戦国と幕末でないというだけで、ある特定の歴史上の人物(一族)に対する嫌悪感が半端なかったです。でも、心優しい歴史つながりの友人たちとのかかわりや、前世・過去世の存在を否定せずに現状の不条理な感情や問題を解決しようといていく中で、今は改善に向かっています。

 令和の世になっても、いまだ戦国と幕末が終わっていない人たちがたくさんいるのではないかと思うと、私もまた感情の鎖に縛られた苦しみを知る者ゆえに、胸が痛みます。

2024年4月24日水曜日

呼び起される感覚と感情

           

 私が米津玄師さんの歌が好きなことは以前も記しました。

【ツインレイを知るための創作作品④-前編】米津玄師さんの楽曲には本人も知らない秘密があった!?
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_5.html

 なんたって私だけの「アポロン」ですから(笑)。そして、その秘密の一端が「松果体」です。

【ツインレイを知るための創作作品④-後編】謎の頭痛と松果体〔体験談〕
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_6.html

 これらを書いた四年前は、まだ漠然としていたところがあります。そして、ツインレイの関係らしい歌が心にひっかかりましたが、数年前くらいから、そうでない歌に反応するようになりました。自身の身体すべてが歌を感じていることがわかります。ーーいつのことかは思い出せないけれども今ではないこの時に、誰かを強く慕っていたその感情が、静かに呼び起されるのです。歌詞を見ただでも〝これは輪廻転生のこと?〟という作品が多いのは、ファンの方なら感じていらっしゃるのではないかと思います。

 実のところ、私がショートショートSFで描いている世界は、まさにその体験なのです。それらはラブソングのはずなのに本当にごめんなさいなことを告白しますが、呼び起される私の感覚は主従関係です。まるで恋するような絆で結ばれた男同士の黙した感情……。ただ、やはり米津さんは只者ではないので、そんなところまで呼び起せるような作品を作り出している気がしてなりません。

 私のそうした感覚と感情を呼び起させる作品は何曲もあります。あえて二つだけ、ここでとりあげようと思います。

 この胸に空いた穴が今
 あなたを確かめるただ一つの証明

 「ドーナツホール」(上記で歌詞の一部を引用)は、ある日突然、気づいたら勝手に涙がこぼれていて〝え? あれれっ??〟となっていました。(動画はハチ名義のボカロですが、私が聴いたのはアルバムのCOVER版です。米津さんの声であることも重要なようです)。

 歌いだしから〝魂〟をつかみとられ、何度聴いてもすべての言葉が全身を震わすような感覚に陥る曲もあります。

 全てを燃やして月を見ていた
 誰かがそれを憐れむとしても
 あなたがいれば幸せだったんだ
 およそ正しくなどなかったとしても
 消えたりしない

 この曲は有名なゲームの主題歌だとのことですが、その世界観をしっかり再現しているというファンの評価も高いにもかかわらず、私のようなオバちゃんのわけのわからん記憶まで再現してしまうのですから、これを「異能」と言わずしてどうするのでしょうか……。

 こうした経験から私は、チャネリングとヒーリングを広範かつ強力にできることが、米津さんの「異能」の正体ではないかと考えるようになってきました。

 今現在も、NHKの朝の連続テレビ小説の主題歌を歌われていますね。米津さんの歌に普段は接することのない年代の方たちにも、毎朝この歌声が届いているのだと思うと、とてもエキサイティングです。ーー彼のような「異能」の持ち主たちの時代が始まっていることも予感しています。

2024年4月23日火曜日

タロット・カードは前世の鏡!?

                            

 これをお読みになっている皆さんは、もしタロット・カードをもしご存じでしたら、どのアルカナ(カード)が好き、気になるといったことはありますか。

 私が開催しているタロット・カードの講座の受講者の方やそのご友人の話などを聞くと、実に様々です。ちなみに私の場合、大アルカナ22枚であれば、「正義」と「隠者」になんとなくですがひきつけられます。

 ある日、講座の中で受講者の方から〝法律に興味があるから「正義」のカードなのですか?〟と聞かれたことがあります。ーーその時は、不意打ちをくらった感もあり返事をはぐらかせてしまったことをお詫びしつつ、それはかなり鋭い指摘でした。

 私の専門的な研究は古典文法がスタートです。物事の法則性に興味があります。でも、いつしか言語の法則性を超える何かの方が気になってしまい、倫理学や思想史がご専門の先生との縁が生じたこともあって、言語を基礎としながらも関心はそちらに移っていきました。

 また、法律や裁判(裁く対象となる犯罪も同様)にも単純に関心があります。大学進学時には、担任の先生に法学部をすすめられました。しかし、〝法律は人間の大事な部分を縛り付けるものなので文学部にします〟とか何とか言って、突っぱねたのを覚えています(法制史や法哲学という分野があるらしいのを大人になって知り、そういう分野だったら学びたかったという若干の後悔があります。思い込みの激しい高校生だったのが災いしています……)。

 そして、「正義」のアルカナに対して、私の前世・過去世が無自覚に反応している可能性は否定できません。私には数年前、自分が日本の某時代に法律の作成や裁判の担当者としてかかわっていたのではないかという、漠然とした思いがわき起こりました。そして、知人を介して知り合ったチャネリングの能力がとても高い方に見ていただいたところ、やはりそうだというのがわかりました。

 ここで、タロット・カードに戻ります。タロット・カードにおける私の〝バイブル〟は、東條真人先生の『タロット大辞典』です。何度も何度も読んでいます。

 私が開催しているタロット・カードの講座は、東條先生の説に依拠して展開しています。もとは理工学系の研究者でいらして、多くの言語に精通している先生は、ご著書の言葉を通してしかお会いしたことはありませんが、世界の真実を知りたい思いに駆られて在野で研究を続ける私にとっての憧れです。

 東條先生のご著書を読み合わせているうちに、タロット・カードは人間の夢や無意識を言語化したものであることが、自分なりに理解されてきました。ーー個人の無意識下には、その前世・過去世も存在しているので、アルカナ(カード)が自分に何かを訴えて来ても不思議ではないだろうと考えています。

 皆さんもぜひ、タロット・カードを手に取って、アルカナ(カード)の一枚一枚とじっくり向き合ってみてほしいと思い、細々と講座を続けています。


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2024年4月22日月曜日

輪廻転生の軌跡と家系的に引き継いだ能力

           


 私は占いなど信じない人間でした。数学や物理の成績はまるでダメダメでしたが、科学的な知識には興味がありましたし、大学では文法や語法の研究をしました。実証できる物事に対する関心が強かったですし、霊的な能力もありませんので、当然と言えば当然でしょう。

 しかし、二十代の後半で、自分ではどうしようもできないような出来事に遭遇し、繁華街の専門のお店で初めて占いを受けました。私のことなどまったく知らないはずの人間が、知るはずのないことを知っていることに驚き、彼女の使用していた占術が四柱推命であったことを調べて、そこから占いについて独学で学び始めました。縁あって、現役のプロの占い師からタロット・カードと西洋占星術、そして、サビアン占星術を教わることができました。その後も、様々な占術を試しましたが、結局、内容に納得して手元に〝残した〟ものは、タロット・カードとサビアン占星術でした。

 サビアン占星術についてはまた別の機会にお話しできればと思いますが、最近になって初めて、両者がルーツを同じくするものであることを知りました。自分で選んで〝残した〟と思っていた二つの占術は、実際のところ、自分の意思とは関係なく、残るべくして残った占術であったことに驚きを隠せませんでした。

 ーーおそらく、こうしたことが前世・過去世にまつわる〝真実〟なのでしょう。私たちの意識とは、無意識が主であり、自分自身で選択・決定したと思われた意思(自我)とは、単に無意識のそれを追認するだけだという研究もなされているそうです。

 一方で、冒頭で私は、占いなど信じない、科学好きで文法好きであるということを述べましたが、それもまた意味のあることのようでした。なぜなら、現在私は占いを副業として鑑定や講座に取り組んでいますが、これこそはと信じて使っているテキストはまるで研究書であり、言葉や法則というものに関する専門的な知識と能力を駆使して読み解いていく必要を感じているからです(本業でそうしたことに携わっています)。

 私のDNA的なスペックという点から見ると、私が最も興味をひかれる日本のある時代に、私の祖先は日本を統治していたある一族を支える有力な一族でした。その中で私は、集められた文献を学び、法律等を扱っていたというのです(これは、かなり高い霊能力のある方に確認もしています)。

 先に投稿した「二つのカルマの交錯する地点」の実際とは、私の無意識下に眠るこうした〝真実〟であるのです。これまでの価値観が日々変化している現代にわざわざ生まれてきたことを考えた時に、私の輪廻転生の軌跡と家系的に引き継いだ能力とを最大限に生かす場がどこかにあるのだとしたら、それがどこで、一体何をすべきかを模索する日々が続きます。

 「時機到来」の小説でも、今日の私の体験談でも、いずれにせよ、お読みになっているあなたの気づきや行動につながるきっかけとなることを祈っております。


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2024年4月21日日曜日

二つのカルマの交錯する地点

           

 本ブログの最初に投稿しました短い小説「時機到来」は、現段階でもっとも新しく書いた作品の一つです。今後、古い作品も本ブログのテーマに合わせてピックアップして紹介する予定(もちろん、新作もです)が、これまでいまひとつよくわからなかった〝あれこれ〟がやっとつながり、今まさに始まりなんだということをぼんやりと感じています。

 私は、十代から常にわけのわからない不安を抱えて生きてきました。それというのは、無数の誰かの気配を自らの内に感じ、〝私〟が何者で、どこへ向かい、何をすべきかがわからないといったものでした。

 今から十年くらい前より、不思議な出来事が身の回りで起きるようになりました。そして、いつの頃からか、「無数の誰か」というのが、今の自分とは違う自分や、自分にかかわる多くの人たちの共通した意思のようなものではないかと感じるようになりました。

 さらに、それらの正体は、自分の前世や過去世、現在の自分の身体に宿る記憶(先祖からひきついだDNA)なのかなと思うようになっています。そして、この「時機到来」という小説は、その両者の交錯する〝体験〟を描いてみたものです。

  「前世や過去世」とは輪廻転生の過程であり、一方で、「自分の身体に宿る記憶」とは両親・祖父母から先へと連なっている家系的なDNAではないかと、私はそうとらえています。

 今後このブログで順を追ってお話していくつもりですが、輪廻転生には個人的なカルマによって繰り返されるテーマがあります。そして、家系的なDNAにも集団のカルマによって引きずる思考の癖や強い感情があるようです。

 「時機到来」は、私が幼い頃から憧れる日本のある時代が舞台です。そして、その時代に私の父方の家系では大きな出来事が数多くありました。つまりは、〝私〟という個性にとって、とても重大な時代であり、個人であった可能性が高いのです。

 おそらく、私のこの人生では、個人のカルマのみならず、家系のカルマの清算をもしなければならないのがわかってきました。二十代の後半から占いにかかわり、二十年以上の時が過ぎていきましたが、これまで鑑定をしてきた多くの方たちにはそこまでのカルマはなさそうな雰囲気でした。ところが、自分はそうではないようです。

 「時機到来」の小説でも、このブログで綴る私の体験談でも評論・随想でも、いずれにせよ、お聞きになっているあなたの気づきや行動につながるきっかけとなることを祈っております。


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2024年4月20日土曜日

【小説】待ち人来たらず

          

 我々にとって最後の主君が捕らえられた。ーーわかっていた。決められてたことであった。

 お支えし続けた我々が、しかし最後は……一族の存続を選択し、沈黙を貫いた。誰も、父祖たちも、そんなことは望んではいなかった。先代も、先々代も、百年以上も我が一族が慕い、忠誠を誓った主君との非情な別れは、我々の呪われた宿命であった。

 我々一族には使命があった。この後、いついかなる形でかわからない主君の復活の時に彼らを迎えるため、主君が〝滅びて〟も我々は存続しなければならないというものであった。ーーこれは、我が一族が祀る〝お石様〟の意思であった。一族の命運はすべて、太古に空から降って来たこの巨石の発する言葉に委ねられていた。

 〝お石様〟の存在と〝お石様〟の言葉を聞くことができる我が一族の秘密を知り、我々に近づいた主君の一族は、自分たちの運命を受け入れていた。そして、何があっても我々は〝お石様〟の言に従うよう代々厳命をくだしていた。

 しかしながら、我が一族はこの時の判断をめぐって分裂が起こった。世は移り変わり、戦乱に次ぐ戦乱によって一族は散り散りとなり、やがて〝お石様〟の祭祀も廃れてしまった。

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 桜の花はまるで光の粒のようだ。自分には眩しすぎる美しさだ。そんな桜が散ってしまうのを見たくない。だから、咲かなければいいと思う。けれども、なぜか毎年、その木の下にたたずんでしまう。ーー大事なことを何か忘れているのであるが、この時期だけは思い出せそうな気がするのだ。

 誰か大事な人と、酒を酌み交わして夜通し議論した。誰か大事な人と、市井の人々の生活を見て回った。誰か大事な人と、理想の世を築くために奔走し、幾度となく巡る季節をともにした。

 誰か大事な人を失い、しかしながら、どういうわけか自分は失ったはずのその人を待っている。ーー一体、誰を、待っているのであろうか。

2024年4月19日金曜日

仕事と収入問題2024ー私の場合、あなたの場合ー

           

 就職氷河期(最初期)の当事者であった私にとって、同世代の仕事の問題には関心があり、先には「氷河期世代問題2024ー私の場合、あなたの場合ー」(全3回)でその思いを書き綴りました。

氷河期世代問題2024③ー私の場合、あなたの場合ー
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/2024_14.html

 氷河期世代と同様に、教育の現場で長く進学・就職の指導にもかかわってきた私は、若年層の仕事の問題にも関心を持っています。

 私が教員になった1990年代の末は、不登校や引きこもりの問題が増えていました(余談ですが、少し前までは、暴力や非行の問題が多かったそうです)。そうでなくても、進学や就職においては〝将来の(生涯にわたって)仕事を確保できる率が高い〟〝手堅く収入につなげられる〟といったことを、適性よりも重視していました。親御さんもほとんどがそういう方向での指導を望んでいました。

 今思えば、不登校や引きこもりの子どもたちは、現代社会が内包する矛盾と、自分がそこでは生きられないような不安を肌で感じていたのだと思う時があります(もちろんそれだけではなく、家庭の問題や、それこそ家系や前世・過去世の問題がありそうな雰囲気の子もいました)。

 また、進学・就職の指導も、当時はよかれと思っていましたが、世の中が変わった今、かつての教え子たちに、〝あの時の発言は撤回します!〟〝私の新しい考え方と生き方を知ってください!〟と触れて回りたいくらいです。

 以下に引用した動画は、介護の仕事を続けることになった「元ニート」の「ワイ」くんの告白をもとにしたものです。(サムネイルがかわいらしいですね!)

 二十数年の教員生活でしたが、福祉の仕事の中でも介護職はあまり人気がありませんでした。ある年には、本人は介護の専門学校に進学して介護の仕事に就くという明確な意志を持っていたものの、親御さんが難色を示したということがありました(薄給で現場が厳しく、男の子だったので、一生続けられる仕事なのか疑問だということでした)。こちらのご家族は私が趣味で占いをしているのを知っていたのですが、親御さんから〝先生が占って進んでよいという結果であれば許します〟という提案を受けました。

 〝ええっ〟と思いましたがサビアン占星術で鑑定してみたところ、その子にとって介護職は天職でした。ーー今でもその教え子は介護施設で充実した毎日を送り、資格も取得して管理職となっていると聞きました。

 一人一人には豊かな個性と能力があります。仕事のキツさや賃金が割に合うかといった問題はどこまでも本人が決めることで、両親や教員が判断するものではないのでしょう。また、昭和・平成の時代は限られた選択肢から仕事を選んで、自分をそれに合わせなければならないという価値観が支配していました。しかしながら、そんな枠には収まらないユニークな個性や能力を持った子(人)たちもいるのです。ーーこれまでの常識や価値観が崩壊する現代社会は、むしろそうした個性や能力が新しい世の中を作っていくに違いありません。

 そう言うと、特別な何かが求められていると勘違いされる方もあるかもしれませんが、例えば、小さい子の面倒を見るのが得意であるとか、お年寄りの話し相手が落ち着くとか(動画の主人公の「ワイ」くんもそうだと言っています)、それは十分〝特別〟であると私は考えます。私がたまたま、人よりもほんの少しだけ物を読んだり考えたり書いたりするのが好きで継続できるというのと(あるいは、ある人が人の髪の毛を上手に切ることができること、またある人がおいしい料理を作ることができること、などなど……と)、何も差はないと思います。人はその存在そのものが十分に個性的であり、特別な能力を有しており、お互いがお互いを自然とリスペクトせずにはいられないと私は実感するからです。

 (サムネイルにある「ワイ元ニート 毎回3日で仕事バックレてたけど 介護の仕事始めて3年が経過」のストーリーは冒頭の10分弱になります。)

 この動画の主人公「ワイ」くんの告白に対してのコメントに暗示されていますが、自身の家族(や独居の高齢者)の介護が今以上に社会の大きな課題となってくるのは必至です。これには、社会構造の再編が求められ、個人や家族、地域単位での取り組みの必要性を強く感じています。その際には、現状の「収入」の概念を打ち破り、一部特定の組織・団体や個人に金が集まるのではない、あるいは、もし集まったとしても、そこには介入せずにお互いの個性と能力を限られたコミュニティ(地域あるいはネット上の小グループ)で分かち合うような形が模索されていくのではないかと想像しています。


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2024年4月18日木曜日

二極化問題2024ー私の場合、あなたの場合ー


 いまやスマホの所有とSNSの使用は当たり前の世の中のようになりましたが、何かあると一般人であろうが身元まで特定されるおそろしさと表裏一体であると思います。直近では「産休クッキー」の話題に驚かされました(そんなものまで商品化されるのですね)。SNSの界隈ではよく「民度」という言葉が使われますが、各SNSにはそう称される特色が色濃く出ており、さらにその中にも階層のようなものがあると感じています。

 「産休クッキー」に戻りますが、仲の良かった男性で独身の同僚の言っていたことが印象に残っています。

 〝家庭を持っている人たちに対してのやっかみなどはなく、独身がかぶって当然みたいな態度がありありと見える人たちがいる〟

 同じ独身でも、確かに女性の私よりも、男性の彼(ら)の方が肩代わり率は高かった気がします。彼の言っている人は、あの人とかあの人だなとすぐわかりました(だって、性格も人相も……でしたもの(苦笑))。強要するつもりなんか全くないのですが、感謝の気持ちを持っている人たちに対しては、〝大丈夫ですよ〟〝気にしないで〟という一言が自然と出てきます。

 最近こうした、「情けは人のためならず」ということわざが心にしみる出来事が増えています。

「情けは人の為ならず」
 人にかけた情けは、めぐりめぐっていずれは自分や身内にも及ぶものである。

[補説]現代では、人に情けをかけることはかえってその人のためにならないとする解も広く行なわれているが、本義ではない。

故事俗信ことわざ大辞典

 (中世にもこのことわざの用例があります。現世のみならず、前世・過去世からの因縁ともなっている意味合いが、おそらくあると思います。)

 母の歩行が困難になってきており、病院などで外に出る際に付き添うことが多くなりました。その際に、杖をついた老婦人と、時には付き添いの私にまで、こころよく席を譲ってくださる方がたくさんいらっしゃいます。ーー譲ってくれた方への感謝が心からわきあがり、直接この方たちへは返せないものの、彼・彼女らがしてくださったように、母や私と同じような立場の方たちにお返しできたらと思うのです。

 少し前に、やはりSNSを介して、ハンディキャップのあるインフルエンサーを名乗る人物の炎上騒ぎがありました。あるVtuberの方がリスナーから、〝この事件に対してコメントしてほしい〟と言われ、あまりしたくないと前置きしつつ、〝乞食のすること〟といった返答をしていたのが印象に残っています。

 この炎上騒ぎを受けて、同じようなハンディキャップを持つ方が外出したくないとご家族の方に思いを漏らしたというコメント、多くの人はハンディキャップのある方たちに対してできるだけの手助けをしたいと思っているというコメントをSNS上で見しました。ーーこうした趣旨のいくつものコメントは、お互い直接のやりとりではなく散見せられました。

 最近、スピリチュアルやなぜか自己啓発系の情報でも「二極化」などと言われますが、上下関係とか金銭的な勝ち負けを言っているのには違和感を覚えます。

 悪意や欲(承認欲求を含む)がむき出しの人、〝ありがとう〟や〝ごめんなさい〟が言えない人というのが、代わる代わる出現した時期が私にはありました。しかしながら、自分の中にも無自覚に存在する〝それら〟に気づかされ、相手に理解を示しつつも、我が身を振り返ることをしているうちに、いつの間にかそういう人たちの出現率が激減しました。

 街中、特に電車の中は、いろいろな人がその場に居合わせます。無差別に殺傷する人にはそうそう遭遇しませんが(それでも、皆無ではなくなっている世の中です……)、ずっと化粧をしている女性、もたれ合いながら優先席で爆睡する男女、席を譲られて母が少し遠慮しているところを座ろうとした頑健そうな男性などなど、他者の存在などまるで眼中にないといった方も少なくありません。ーーそうでありながら、目的地までの道のりを思いやりのある方たちに助けられて進めるというのは、さらに大きな思いやりを持つ何者かの加護を思わずにはいられません。

 私が最近、前世・過去世のことでお話を伺っている方は、〝我欲をなくしてみんなが助かる世界を〟といったことを常におっしゃっていて、そのためにがんばっていれば災難には合わないのだと主張されます(なお、いきなり全員が「助かる」のは無理なので、段階を踏むようにと言われていることも付け加えておきます。確かに、一人でできることには限界があります)。

 SNSやネットを通じて、普通の生活を送っていただけでは出会えない人たちに出会うことができました。その一方で、SNSやネットで炎上したり身元を特定されたりするような人たちもいます。スマホ一人一台が当たり前となり、SNSやネットを介して一瞬のうちに全世界的な広がりを個人が持つことすら可能となりました。それゆえに、人としての根本的なあり方が、思いもよらない形で「拡散」を遂げ、前時代以上の過酷さをもって極端な結果へとつながるのではないかと推測します。

 まさにそれは、「二極化」を意味しているのではないでしょうか。

2024年4月17日水曜日

教育問題2024ー私の場合、あなたの場合ー

           

 私は長年、中学・高等学校の教員をしていました。私学の教員は、よほどのことがなければ正規雇用となった学校で勤め続けて定年を迎えます(公立校の試験を受けて移るという方もいらっしゃいますが、私は私学志向でした)。創立の理念のもと利益を追求する点では、終身雇用の企業と変わらないところがあります。それゆえ、建学の精神と所属する教職員の雰囲気が合って採用となった後は、労働時間や給与、人間関係の面で妥協ができるラインを保てていれば、別の学校に移る必要はありませんでした。

 最終的には学校の現場を離れることになりましたが、様々理由があります。子供の数が多かった団塊ジュニア世代かつ氷河期世代だったことは、就職活動のしくじりや自己実現的なヴィジョンを思い描くことを最初から諦めていたという点で、大きな障害となっていたのは事実です。

氷河期世代問題2024①ー私の場合、あなたの場合ーhttps://zarara1111.blogspot.com/2024/04/youtube-1970198219932005-20244254-2021.html

 (その他、自分の場合は父親との関係性などもあるのですが、こちらのブログも始めたばかりですので、いずれはお話ししていくことになると思います)。

 ただ、根本的な理由は、決して個人的な問題に帰さなかったことを最近は感じています。私が仕事がきついと感じる一番の要因は、学校の理念的なものと自分の労働奉仕とが等価ではないと強く感じることにありました。さらには、年々、私学ならではの個性や特色というものが、自分の勤めていた学校だけではなく消えていきました(正直、違いは通学時間だけでどこへ行っても同じ)。

 極めつけは、最初に勤めていた学校で尊敬していた先生が退職されてお話を伺った際に、〝最近は教員になりたいと思って就職してくる奴がいない〟と漏らしたことです。これをお読みになっている皆さんは〝???〟かもしれませんが、何度か職場を変えてキャリアを重ねる中で、私にも思いあたるところがある事実でした。

 先日、何年かぶりに会った友人がいました。彼女のお子さんたちは皆〝個性的な子〟で、正直、学校では相当に指導が難しいだろうと思いました。しかし、たとえそうだとしても、それに対する学校の対応があまりにもひどく、学校組織全体と教員個人の資質の低下を強く感じさせました。むしろ子どもたちの方が、進学による学習機会の確保のために学校に通わなければならないという制度が厳然として存在することをよく理解していて、学校や教員と適度な距離感を保つ強さと賢さがありました。

 彼らのお母さんである友人は、最初は彼らを枠にはめようとしたようですが(幸か不幸か、偏差値やお受験のブランドを競うような地域だそうです……)、〝楽しまなきゃ〟と考えを改めたそうです。苦労は多そうですが、彼女の生命は輝いていました。彼女のように〝新しい時代を生きる子どもたち〟を授かって、彼らの資質と能力を伸ばしてあげる役割を持つお母さんたちは増えていると思います(私の副業の占いの顧客や講座の生徒さん方にも多いです)。

 そうです、私が学校現場を去った最大の理由は、現状の学校のシステムが子どもたちの実情には合わないという切実な思いでした(辞めた当時はそれほどこのことには自覚的ではありませんでしたが、今は間違いないです)。〝個性的な子〟には私もたくさんの縁が生じました。しかし、大人数を一括で指導する学校教育では、彼らを叱りつけたり、押さえつけたりしなければなりませんでした。

 〝彼らが個別、せめて数人であれば、こんなに不本意で嫌な思いをして(させて)教えることなんてないのに……〟

 現在、先の彼女とは別の友人のお子さんに対して国語や古文・漢文を個別に教えたりする需要があります。また、お母さん方に占いや新しい世界を生きる智慧についての講座や読書会を提供することよって、間接的に子どもたちの教育に貢献していると思っています。


 国語や古文・漢文の個別指導(大人も可)、占いや新しい世界を生きる智慧についての講座や読書会などに興味のある方は下記リンクの「お問い合わせ」よりご連絡ください。

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2024年4月16日火曜日

占い問題2024ー私の場合、あなたの場合ー


 私が〝この道〟へと進んだ最初は占いでした。〝見えない〟〝聞こえない〟人である私にとっては、占いで使用する占術(タロット・カードや占星術)が、見えない世界へと〝分け入る〟ツールとなっています。

 1990年代から2000年代のはじめは、私自身、占いを習っていることもオープンにできない時代でした。霊能力や占いとは、もともとの資質のある人や、限られた場所で特殊な技術を身につけた人だけの世界から、決して表には出てこないものでした。

視野の狭さに気付かされる〝本物〟に出会う」

人間存在に関する視野の狭さに気づかされて始まる未知の世界への探究 | 輪廻する魂の「物語」〜くり返す前世が終わりを迎える時〜 (szsymphony.net)

 この頃に比べたら、占いは良くも悪くも〝カジュアル〟になったと思います。さまざまな占術について数多くの解説本が出版され、ネットやYouTubeでも学ぶことができます。そんな世相にもかかわらず、私がいくつかの占術を学んだ中で残ったのがタロット・カードとサビアン占星術(と、それらの理解の手助けとして補足的に心理占星学)であり、さらには、テキスト類も厳選して手元に残した物(あるいは、手元に残したテキストの著者の著作の中で必要を感じて新たに購入した物)だけを何度も何度も読み込んでいます。

 しかしながら、残したテキスト類を何度も読み返し、鑑定や講座を重ねても、謎でしかない部分がありました。ただ、私は古典文学や言語の研究者でもあるため、わからないことを保留にしながら探究するというのには慣れていたため、諦めることなく占いに取り組んでもいました。そして現在、前世・過去世ということを自分の実感として理解し始めた時に、謎が少しずつ明らかになるような思いを抱いています。

 自分の意志と努力ではどうにもならないことが世の中にはあると知って占いを学び始め(30歳前後。今にして思えば、これは前世・過去世におけるカルマ的な人間関係に起因した事件によるものだったとわかります)、ツインレイらしき人物に出会ったことで人知れず悩み(40代半ば。ただし、40歳前後から大きな転機に向けての予兆はありました)、ネットでの情報を読みまくった末に〝この人ならば……〟と思う人たちの元を訪ねたのが最初でした。

ヒーラー・チャネラー問題2024ー私の場合、あなたの場合ー」

ヒーラーやチャネラーの協力をあおぐことと彼らに依頼する以前の問題 | 輪廻する魂の「物語」〜くり返す前世が終わりを迎える時〜 (szsymphony.net)

 上記の引用にある、「30歳前後」と「40歳前後」という年齢や、自分の身に起きた出来事のサビアン占星術上の意味を実感として理解した時、「占いは高度な学問」と考えていた私に、〝あれっ〟と思わせるような転機が訪れました。

 占いが「学問」である事実(緊密な体系を持つことだけでなく、医師や弁護士のように専門的に学ぶ必要性があるといった面を含む)は否定しない一方で、(それこそ医師や弁護士がその専門的な仕事をするように)個々の人間の生活において有用な使い方がなされるべきものであるという認識です。それは、占いの現状としての三大需要(?)〝お金・仕事・恋愛&結婚〟の願望を満たすということではありません。人間の精神生活にとって欠かすことのできない根源的な何かを知り、より善く生きるためのものだという認識です。

 それにより私は今、これまで何度も辞めてしまおうと思っていた占い(いずれお話しできればと思いますが、研究活動に力を入れたかったのと、占いを副業にするきっかけが自発的なものではなかったため)に対しても、かつてない積極的な気持ちになっています。

 そんな時は、次々と〝引き寄せ〟が起こります。研究活動を続ける道筋を作ってくださった恩師に先日お会いしたところ、現在日本の思想界の最先端を行く方の一人が、「神智学」を取り上げているというのです。「神智学」は、私が手元に残したテキスト類の著者の先生方がその核心に据えているものです。ーー時代がやっと追いついた感がしました。

 私が生きている間に、日本のアカデミズムと占いが交錯する時が来るとは思いもしませんでした。ただ、私は組織や権威が大の苦手、嫌悪すらあります(だから、在野で研究をしています)。しかしそれは、私は私の役割があってのことだと最近は開き直っています。ーーアカデミズムではできない、アカデミズムの成果を在野で広めること、つまり、個々の人間の精神生活の実践を在野で手助けすることが、私のすべきことなのだと思ってます。


 タロット・カードや心理占星学の講座、「神智学」をベースとした占星学の著作の読書会などを開催しております。興味のある方は下記リンクの「お問い合わせ」よりご連絡ください。

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