SNSが発達して、また、いわゆる空前のスピリチュアルブームのせいか、いわゆる霊能者、自分の言葉に置き換えさせていただくと、大多数の人間にとって〝見えないものが見える〟〝聞こえないものが聞こえる〟という人が、あちらにもこちらにも現れている気がします。
1990年代から2000年代のはじめは、私自身、占いを習っていることもオープンにできない時代でした。霊能力や占いとは、もともとの資質のある人や、限られた場所で特殊な技術を身につけた人だけの世界から、決して表には出てこないものでした。ところが、今は全然違います。霊能力も占いもカジュアル感覚な〝スクール〟だとかで学んですぐにお仕事にする……こうした流れに驚きを隠せません。疑り深い私は、これだけ地平が広がれば、水準以下や〝偽物〟が今まで以上にいっぱいいるんだろうと思ってしまうからです。
私個人、占いは高度な学問だととらえていますので、こちらは習熟度によって差が開くのは当然だろうと考えています(この認識が正しいか否かはわからないということを、一言断っておきます)。一方で、人生の折り返し地点を目前にしたくらいから、不思議な力を持つ人たちに助けてもらうことが起きました。とはいうものの、自身の性格上、簡単に信じることはできませんでした。今も半信半疑です。それでも、この人は〝本物〟だと思う人たちはいました。
最初に〝本物〟だと思った人とは、人づてで偶然に出会いました。自分の身の回りで起きる辛くて苦しい出来事の数々に対して、自分ではどうしようもなく、あがいていた時期のことでした。その方の能力は、「気」を診断したり、調整したりするものだということでしたが、私にはよくわかりませんでした(当時は、人間関係のトラブルを多く抱え、ストレスによる心身の不調がありました。それを改善したくて習いもしたのですが、まるで身につきませんでした)。その方は、私が二十年後くらいに知る、しかも普通には知りえないことを、どういうわけか初対面で言い当てもしました。
その後、「ツインレイ」らしい異性に出会いました(今現在は、この〝概念〟と〝市場〟とは距離を置いています)。その解決策をネットで探し求め、実際に会ってみた2人は〝本物〟だと思いました。2人ともヒーラーといった類の能力をお持ちなのではないかと思いますが、1人は忽然と姿を消し(連絡やサイトへのアクセスができなくなった)、もう1人の方にはいまだに何かの折に相談にのっていただいています。
さらにその後、チャネリング系の能力のかなりの力のある方に出会いますが、この方は最初の方と同じように、人づての偶然で出会いました。そして、最近もう1人、ネットを検索して出会ったチャネラーの方には、前世の問題を中心に相談にのっていただいています。
何を言いたいかというと、私はある時に、現実の問題が現実だけの問題ではないということに気づいたということです。現実的な問題、例えば身体や人間関係の困難を物理レベルで解決を図ろうとするのではなく、思念(思考や感情)、感覚の問題としてとらえ、特殊な能力を持つ方たちに何らかの形でそこに働きかけてもらうことにより、身体や人間関係の問題に立ちはだかる壁を突破してきたことを〝経験的事実〟として持っているのです。
これには逆バージョンもあります。コロナ禍にネット上で知り合った友人は、「断捨離」の実践を通じて、気づかないうちにだんだんと身体や人間関係の問題に向き合い、心の自由を得たと言います(この方は、提唱者・やましたひでこ氏の公式のトレーナーの資格も持っていらっしゃいます)。思考や感情、感覚という目に見えない世界に対しては、実際のところ「断捨離」のような目に見える形、物理的なアプローチが有効であったというのです(実のところ、これまで述べたような出会いと並行して、私も汚部屋の片付けや掃除をしていました)。
私たちは、心には心、物には物と、同じ次元でのアプローチによる解決しかないと、頭から決めつけているところがないでしょうか。ところが、真の解決法とは、両者を立体的にとらえて人間存在の全体を俯瞰することで、根本から立て直していくものなのだという気が最近しています。そして、期せずしてこのことに気づかせてくれた、〝本物〟と私が認識した指導者の方たちは、個人の身心とその周囲だけにとどまらない空間や時間といった次元が加わったものの見方ができるのではないかと感じています。
人間関係が辛くて苦しい、見えないものが見えない、聞こえないものが聞こえない状態というのは、視野が狭いのではないかなどと言うと非難されそうですが、私自身、今でも相談にのっていただいているヒーラーさんに、最初にお会いした時には失礼な奴だと思ってブチ切れて帰宅したのを覚えています。知識を学んでわかっているなどと慢心して、現実の世界、スタート地点からすでに何も見えていないし聞こえていないのです。数々の〝思い込み〟の鎧を脱ぎ、閉ざされた部屋を出て広い世界にその身を置かないとならないのかもしれません。
私が、自らの前世や先祖のことがぼんやりと、自分自身でもなぜか〝わかる〟ようになるには、こうした〝本物〟の方たちとの出会いがあり、周囲の物理的な環境の整理がなされ、人間存在に関する視野の狭さを払拭することが始まりだったと言えます。