2024年3月31日日曜日

【ツインレイを知るための創作作品②-2】新海誠『君の名は。』&清水玲子「世紀末に愛されて」


 現在の私は、〝脱ツインレイ概念〟および〝反ツインレイ市場〟の立場をとっています。【ツインレイを知るための創作作品】シリーズは、四年ほど前に記したものです(2024年3月現在)。「ツインレイ」という語とそれをめぐる喧騒に疑念を抱く方たちに、ぜひ読んでいただきたいと思います。その頃よりも考えが変化している部分もありますが、「ツインレイ」の根幹には〝真の自己実現〟がある(そして、いずれその過程には、前世・過去世やカルマの問題が立ちはだかる)というスタンスは変わっていないと思います
 ※記事によっては、現在の考えとして補足の説明を加えたいと思います。

 (前回のつづき)

 今回紹介した2つの作品の共通点はずばり “出会えばそれだと間違えなくわかる”。ーー何で!?っとツッコミたくなります。ツインレイが感覚的、個別体験的ゆえに“わからない”とされる所以です。

 なお、「世紀末に愛されて」は読んでいるとすぐに伏線が見えてきて、単純と言えば単純なストーリーです。しかし、私はどうにも気になってずっと覚えていました。これって宇宙版ノアの箱舟? 人間をつがいにしてワープさせるなんて、どういう発想? わからん……。
 ※これは別の機会にお話しできればと思います。

 清水玲子さんの作品はどれも、未来を見てきているのではないかというような静かな怖さがあります。少し神懸っている感もありますが、村上春樹しかり、芸術家の能力とはそういうものなのかもしれません。

 私の習得したサビアン占星術ですが、習い始めた頃は “よく当たる占いだな”くらいにしか思いませんでした。しかし、こうして副業として鑑定を始めてみて、社会の構造、世界の仕組みが変わる現代の今この時において、来たるべき新しい世界で人が本来の自分で生きる(旧来の社会的枠組みを脱して生きる)ための占いなのだと気づきました。

 私同様に、その真実に気づいてしまった方たち(新しい世界での使命のある人たちでもあるようです)が、主に仕事とパートナーシップの大変化を経験することが多いのにも気づきました。私自身の鑑定結果を見比べても、サビアン占星術は新時代に舵を切るための方位針であることを確信する今日この頃です。


2024年3月30日土曜日

【ツインレイを知るための創作作品②-1】新海誠『君の名は。』&清水玲子「世紀末に愛されて」


 現在の私は、〝脱ツインレイ概念〟および〝反ツインレイ市場〟の立場をとっています。【ツインレイを知るための創作作品】シリーズは、四年ほど前に記したものです(2024年3月現在)。「ツインレイ」という語とそれをめぐる喧騒に疑念を抱く方たちに、ぜひ読んでいただきたいと思います。その頃よりも考えが変化している部分もありますが、「ツインレイ」の根幹には〝真の自己実現〟がある(そして、いずれその過程には、前世・過去世やカルマの問題が立ちはだかる)というスタンスは変わっていないと思います
 ※記事によっては、現在の考えとして補足の説明を加えたいと思います。

 今回は、有名な新海誠監督のアニメーション作品『君の名は。』をツインレイ視点で簡単に解説します。

 まず、この作品の主人公である女の子・三葉(みつは)と男の子・瀧(たき)も、『1Q84』よろしく、お約束のように時空を超えて出会っています。ただし、彼らは気づいたら “入れ替わっている”という 形態をとります。しかし、作品のラスト、瀧は三葉を救うために自ら異世界に飛び込み、未曽有の危機を回避します。

 お互いの女性性と男性性の補完があり、何か大きな課題の “やり直し” によって、共通の使命を成し遂げるといったみたいなことも、ツインレイの持つテーマの一つのようです。

 某サブカル文化人の解説によると、三葉の祖母が入れ替わりの経験があると語るシーンがあり、三葉の父親と母親もおそらく入れ替わりで出会っているゆえに、三葉と瀧が入れ替わっていることを三葉の父は気づき、町長として町の人々を避難させる決断をしたのだということでした。三葉の家系は、かつて起き、いつまた起こるかわからない危機に対して、町を救うためにそうした能力を受け継いでいる、と。……なるほど。

 そして、瀧と三葉はお互いを強く思い合い、再び出会えること願ったにもかかわらず、入れ替わりの後はまるで夢を見ていたかのように忘れてしまっているのです。ーー顔も、名前も。喪失感だけが残っています。それでも二人はともに、“会えばわかる”と漠然と感じているのです。

 私が最初この映画を見た時は、謎解き要素の方に興味がひかれていたので、のちにDVDを借りてきて何度も見直して、物語の構造についてやっと理解しました。
 ちなみに『天気の子』もツインレイ要素は強いと思います。しかし、私はまだあのエンディングを受け入れ切れてません(『ヱヴァンゲリオン新劇場版:破』のラストシーンにも同じものを感じ、私はダメでした)。シンボリィックにとらえればいいとは思うのですが、私はあまり認めたくないところがあります。
 ※興味のある方は、コメントにて直接ご質問ください。あるいは、別の機会にこのことについての記事を書くかもしれません。

 さて、今回はもうひと作品。
 清水玲子さんの「世紀末に愛されて」という短編漫画です。清水玲子さんは、生田斗真さん主演で有名になった『秘密』という映画の原作を描いている方です(『秘密』面白いです! 清水玲子さんはSFを美麗な絵でお描きになります)。
 ※花とゆめコミックスの『天女来襲』という単行本に収録されていますが、現在は電子マンガサイトなっどで『22XX』というタイトルの短編集に収められているのを閲覧できます。私もこれを書くのに電子で購入してしまいました。

 高校生の時に清水玲子さんファンの友人からすすめられて、その頃の作品はほとんど読みました。そして、「世紀末に愛されて」は特に鮮明に覚えていました。この話は、地球が終末を迎える時、真実の愛で結ばれた男女でないと地球を脱出できないという設定で、主人公の青年が姿を消してしまった恋人を探しているところに、仮面の僧侶からある依頼を受けます。それは、恋人が戦争に行ったまま帰って来ないで待っている女性の恋人として、彼女と一緒になってあげてほしいというものでした(青年は彼女の恋人に容貌が瓜二つだったのです)。

 (次につづく)

2024年3月29日金曜日

【ツインレイを知るための創作作品①‐3】はじまりは「異世界」でのニアミス〔体験談〕


 現在の私は、〝脱ツインレイ概念〟および〝反ツインレイ市場〟の立場をとっています。【ツインレイを知るための創作作品】シリーズは、四年ほど前に記したものです(2024年3月現在)。「ツインレイ」という語とそれをめぐる喧騒に疑念を抱く方たちに、ぜひ読んでいただきたいと思います。その頃よりも考えが変化している部分もありますが、「ツインレイ」の根幹には〝真の自己実現〟がある(そして、いずれその過程には、前世・過去世やカルマの問題が立ちはだかる)というスタンスは変わっていないと思います
 ※記事によっては、現在の考えとして補足の説明を加えたいと思います。

 簡単に復習すると、「ツインレイ」とは、かつてはひとつの魂であった一組の男女で、一人の人間に何人かいると言われているソウルメイトの中でも、その頂点をなす究極的な関係にあり、「魂の伴侶」と呼ばれたりもしています。

 私の魂の放浪は、今思い返せば地方都市に移った三年間がはじまりでした。サビアン占星術でも人生のクライマックス!と思われるようなシンボルが出ていた私は、意気揚々と新天地に向かったのですが、その希望と野望は打ち砕かれました。
 ※サビアン占星術…当チャンネルの主が長年携わっている占術。360のサビアンシンボルを読み解く。

 そして、地方都市生活2年目に経験した、立ち上がれないほどの頭痛が “ツインレイ覚醒(?)”のはじまりでした。ツインレイに出会った人の中には、これまでにないような頭痛などの身体の変化がある人もいるそうです。
 ※「頭痛」については、また別の機会に違う視点からお話したいと思います。

 そのあと、私はこれまで読むこともなかった村上春樹の長編『ねじまき鳥クロニクル』、そして『1Q84』を手に取って読んだのです。実は『1Q84』は首都圏にいる時、文庫版になった際に購入しています。しかし、結局買うだけ買って読まなかったので、地方都市に出る前に古本買取に出してしまいました。

 ちなみに、ツインレイに出会う運命にある人も、準備が整っていないと延期延期になるそうです。私は人生のどこかで、集合的無意識や生まれ変わりや夢やパラレルワールド、そして究極の男女関係が描かれた村上春樹の小説を読んで、自分の身に起きるであろうこととの“類似性”に気づく必要があったのだと思いますが、地方都市に出る前はそうではなかったのだと思います。

 この“類似性”というのは重要で、おそらく最近では「シンクロニシティ」という言葉を聞く方もあると思いますが、ネット上の他人の情報との共通点よりも、自分自身の何らかの体験同士との類似性(何となく似ているというピンとくる感じ)が、最も「ツインレイ」現象をそれだと認識する手立てのような気がしています。

 (これというのは「ツインレイ」に限らず、人生の重大な局面ではよく起こることであるかもしれません。)

 首都圏に戻ってきてある程度の時期が過ぎてから、自分の中でなんとも処理しがたい、よくわけのわからない男性に出会い、それが「ツインレイ」とかいうものらしいことをネットの検索で探り当てたのですが、その彼は、私の謎の頭痛があった頃に例の地方都市でニアミスしている可能性が高いのです。  おそらく首都圏にいても絶対出会わなかった距離が、その当時彼がいた場所よりもはるかに遠い某地方都市に私が出たことで、逆説的ではあるのですが “消滅”する機会に遭遇し、お互いの人生が初めて物理的に重なったのだと思います。

 私にとっての異世界「1Q84」は、まさにその地方都市だったんですね(笑)。相手も人生で何度も行く場所ではない(おそらく初めて訪れた?)ということを言っていました。

 私はこれ以降、不思議な偶然みたいなことがちょくちょく起きるようになりました。私の社会生活に強烈に影響を及ぼす類もごくわずかにはありますが、アイデンティティのパズルが崩壊しつつ組み替えられるようなことが起き続けています。

 くり返しにはなりますが、私は見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりはしませんし、スピリチュアル系の横文字の職業の区別もよくわかりません。サビアン占星術もタロット・カードも、あくまで、人類の歴史における長年の叡智が凝縮された文化的ツールだととらえています。

 それでも、自分に起きた現象について受け入れ、体験を普遍化することで、私のように人生に立ち往生してしまったという方たちに対して、自分自身で道を切り開いていけるお手伝いができればと思っているのです。

2024年3月28日木曜日

【ツインレイを知るための創作作品①‐2】村上春樹『1Q84』


 現在の私は、〝脱ツインレイ概念〟および〝反ツインレイ市場〟の立場をとっています。【ツインレイを知るための創作作品】シリーズは、四年ほど前に記したものです(2024年3月現在)。「ツインレイ」という語とそれをめぐる喧騒に疑念を抱く方たちに、ぜひ読んでいただきたいと思います。その頃よりも考えが変化している部分もありますが、「ツインレイ」の根幹には〝真の自己実現〟がある(そして、いずれその過程には、前世・過去世やカルマの問題が立ちはだかる)というスタンスは変わっていないと思います
 ※記事によっては、現在の考えとして補足の説明を加えたいと思います。

(前回のつづき)

 私たち人間が数多くの選択をする中で、無限のパラレルワールドが存在しているようなのですが、「ツインレイ」に出会い(再会し)、幾多の困難(ツインレイの関係には必ずつきまといます)を覚悟して必ず克服すると決め、その人と生きるという選択をした人は、すでにこれまでとはかなり隔たれた異世界に移ったのだと私は考えています。

 (私は10代の頃からSFが大好きで、特に好きなのがパラレルワールドとタイムスリップものです。)

 そう考えると、『1Q84』は来たるべき近未来を予知した小説だったのかとも思えます(それが、世界を魅了するほどの小説家の能力と言えばそれまでですが……)。現実として、これまでの価値観や常識が崩壊していく世界となり、私みたいなスピリチュアルは実際のところわからないと言っている人間ですら「ツインレイ」を知り、多くの人が“自分も出会っている”という世の中になっていますからね……。

 (『1Q84』は長編小説ですが、読みだしたら止まりません。私としては、“読んでみたい!” “詳しく知りたい!” という人のために《ツインレイを知るための『1Q84』読書会》みたいなものをいずれできたらいいな、とは思っているのですが……。)


2024年3月27日水曜日

【ツインレイを知るための創作作品①‐1】村上春樹『1Q84』


現在の私は、〝脱ツインレイ概念〟および〝反ツインレイ市場〟の立場をとっています。【ツインレイを知るための創作作品】シリーズは、四年ほど前に記したものです(2024年3月現在)。「ツインレイ」という語とそれをめぐる喧騒に疑念を抱く方たちに、ぜひ読んでいただきたいと思います。その頃よりも考えが変化している部分もありますが、「ツインレイ」の根幹には〝真の自己実現〟がある(そして、いずれその過程には、前世・過去世やカルマの問題が立ちはだかる)というスタンスは変わっていないと思います
 ※記事によっては、現在の考えとして補足の説明を加えたいと思います。

 「ツインレイ」とは、かつてはひとつの魂であった一組の男女で、一人の人間に何人かいると言われているソウルメイトの中でも、その頂点をなす究極的な関係にあり、「魂の伴侶」と呼ばれたりもしています。

 そんな得体の知れない“概念”(←と言っていいのかも不明)について、創作作品を通じてメルマガ読者の皆さんに理解していただこうというのに、いきなり世界的に有名な小説家の作品で驚かれましたか?

 確かに、「ツインレイ」のブログや動画をそれなりに検索して“研究”(笑)してきた私なのですが、この作品を「ツインレイ」と結び付けている人を見たことがありません。

 「ツインレイ」の情報はとてもあいまいです。

 その理由として、「ツインレイ」情報をネットであげている人たちは圧倒的に女性が多く、ベタベタな自分の体験の記述であるだけならまだしも、その核心と言える部分の説明がおおいに感覚的で抒情的です。言語による論理性を得意とする私には、“そんな稚拙な語彙ではわからんぞ!”と、まったくもってそれらが理解不能という“弱点”があります(苦笑)。

 (とはいえ、ネット上でそれらを見つけることがなければ、自分に起きている現象が何かは全くわからなかったであろうことを断っておきます。感謝。)

 しかしそれは一方で仕方がないことなのです。「ツインレイ」は、頭で考えてもまるでわからない代物であることや、普遍性はあるものの非常に個別的な体験に基づくということが、問題としては本質的なところだと考えます。

 さて、実を言うと『1Q84』は「ツインレイ」という言葉を知る前に読み終えていました。かつての私は村上春樹などまったく読まない人間でした。しかし、高等学校の教科書に載っていた短編が面白かったので、それまでに短編集を一、二冊読んでいました。

 地方都市にいる時に何を思ったのか『ねじまき鳥クロニクル』を読み、思った以上に面白かったので、だったら『1Q84』も読んでみるかくらいのノリでした(このあたりのいきさつはまた別の機会で書きたいと思います)。

 読んでみると、『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』には、集合的無意識、夢、生まれ変わり、パラレルワールドといった、私が10代の時から心魅かれるテーマが盛りだくさんでした。ーー面白くないわけがなかったのです。
 ※集合的無意識…個人的な経験を超えた、人類に普遍的にある無意識。われわれの心の深層には、われわれの祖先の経験したものが遺伝してきているとする考えによるもの。ユングの用語。

 しかしながら、『1Q84』においては主人公の男女、天吾(てんご)と青豆(あおまめ)が10歳で出会い、すぐにも別れ、20年もお互いを忘れることなく、最終的にはわけのわからない力に導かれるかのように、時空を超えてまで結ばれようとすることが不思議で仕方ありませんでした。

 「ヘンな小説」

 そう思いました。これは多くの人も指摘しているのですが、『1Q84』は作者がオウム真理教事件にインスパイアされた小説で、「大きな物語」に呑まれる私たちの危うさというものを小説の前面に出しておきながら、最終的には「大きな物語」は解決することなく作品は終わるのです(その点で消化不良を起こす感じです)。

 しかし、私にとってはそれ以上に、天吾と青豆が、2人が最初にいた世界とも、『1Q84』の世界ともまた違う異世界にすべり落ちてしまったかもしれないという一抹の不安を持ちながらも、もう決して離れまいという結末(「小さな物語」と作品世界では呼ばれるようですが……)の方が、“謎謎謎”でした。

 しかしながら、今ならわかります。これが実は「ツインレイ」の本質であるような気がするからです。

 (次につづく)

2024年3月26日火曜日

「物語」の力②

 


「物語」の力①
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post.html

 前回の記事(「「物語」の力①」)では、「物語」が研究されることを望んでなどおらず、また、現在SNSで発信される名もなき人々の無数の「物語」には意味があるのではないかといったお話をしました。今回は、古典文学作品を例にとって、「物語」が本来持つ「力」について、自分の考えを述べてみたいと思います。

 鎌倉末期から南北朝期の動乱を描く『太平記』は、全四十巻の長大な軍記物語です。楠木正成や足利尊氏といった有名な武将の戦いが書かれた作品であると知る人が多いと思います。ところが、全四十巻の中では、彼らが関わった以外の数多くの戦いと、そこで活躍したやはり数多くの武将たちが描かれます。

 〝自分たちのご先祖の活躍を知りたい〟として、読み継がれた時代もあったということです。これは、自らのルーツとしてのアイデンティティ、家系的なDNAをたどるという側面での「物語」の役割だと考えられます。

 一方で、各個人が輪廻転生的なテーマを癒すための「物語」の役割もあるはずだと私は考えています。『太平記』に登場するのは、有名な武将たちだけではありません。戦いの中で散っていった武士たち、戦乱に巻き込まれて非業の死を遂げた貴族や僧侶、庶民といったさまざまな人間の姿が語られています。私たちの前世・過去世にはいくつかのテーマがあり、輪廻転生の中でいくつかのテーマを何回もくりかえすと言われています。そうした時に、「物語」に登場するあらゆる人が、自分の前世・過去世の体現者であるのです。そして、特定の人物の「物語」によって自分がかつて抱いた感情が呼び起され(感情には「時間」がないとされます)、彼・彼女の「物語」を追体験し、未浄化の感情を昇華するのではないかと思うのです。

 近現代の〝よくできた小説〟とは異なり、古典文学作品の登場人物やその展開、結末には不条理なものが多く存在する理由もそこにあると考えます。例えば、ある武将は、戦いにおいては忠臣として描かれながら、一方で、見境なく一般人を殺していた人物であったために地獄に落ちます。〝よくできていない物語〟には、こうした現代人には理解できない矛盾が堂々と語られます。

 ーーしかし、我々の人生も〝よくできていない物語〟ではないでしょうか。はるか昔からくり返してきた不条理や矛盾を思い出させ、時には苦悩とともに反省したり、時には自分に正直になったりして、浄化するのが「物語」本来の役割であり、秘された力ではないのかと思うのです。だから、古典文学作品は読み継がれ、また別の場所では、無数の「物語」が作られているのでしょう。

 ただ最近は、両者より大きな力で私たちの前世・過去世を浄化する役割を果たしているメディアがあると思っています。それについてはまた別の機会にお話ししてみたいと思います。

2024年3月25日月曜日

「物語」の力①

                             


 私のショートショートSFは、ある小説投稿サイトに気ままに作品を書きためているという感じです。その中で、特定の読者が応援してくれているものや、自分で〝これは!?〟と思ったものを、stand.fmにピックアップして、解説もしようと思って始めたのがこのチャンネルです。
 ※当初は音声配信スタンドstand.fmを並行して運営しておりましたが、所有している機器アプリ版が使用できなくなり継続を断念しました。

 私は長いこと古典文学関係の研究に携わっています(文法研究がスタートで、今も研究の起点は〝ことば〟にあります)が、最近、自分の目指すべきが歴史研究では無理であっただろうということと、さらには、文学研究であってもまだ〝足りない〟ということを、ぼんやりとながら考えています。

 歴史は好きです。最初は歴史学の学科に進むことを考えていましたが、受験の競争倍率等の厳しさから、志望を文学部に変えました。これは今になって思えば期せずして〝大正解〟でした。歴史学は「科学」を標榜して、信頼できると〝される〟記録類以外の〝事実〟を切り捨てていきます。これはもちろん悪口ではありません。しかし私には、ありもしない〝正しさ〟を求めて攻撃しあう人たちを、専門家からセミプロ、アマチュアの人たちに至るまで様々なメディア上で見てしまうことも多い分野であるため、足を踏み入れなくてよかったと胸を撫でおろすことが多いです。

 かといって、文学分野はそうではないかというと、〝研究〟とした場合に、作品からは乖離したさまざまな思惑が感じられることがあり、これでは作品を残した古人も浮かばれないなどと思うことがあります。

 あえていえば、伝承などを扱う民俗学分野には柔軟性や寛容性を感じることも少なくありませんが、しかしながら、「物語」は研究されることを望んではいない気がするのです。だからというわけではないですが、私も自分で〝書いて〟みています。そして、ネットワークの技術の発展により、手軽に自分の表現を発表できるSNSによって、多くの名もなき人々が無数の「物語」を発表しているのは、「物語」が望む本来のあり方なのではないかと感じるようになっています。

 作家名付きの有名な作品(特に近現代)の中には、その名前とともに強烈な自我というか自己承認欲求、あるいは、書いた本人はそうでなかったとしても、いつしか金という「欲」の強烈な匂いをまとい、めまいすら覚える作品があります(ひとつ断ると、最初から〝そこ〟狙いの個人発信者もいらっしゃいますね)。それに対して、作者未詳で語り継がれる古典文学作品の、無目的とすら思われる滅茶苦茶さや支離滅裂さに呆れる現代人である私たちが、それでもそんな「物語」の数々に惹きつけられてやまない魅力とは、一体なんなのだろうと思うのです。

 次回は、私の考える「物語」が持つ役割をお話ししたいと思います。

2024年3月24日日曜日

視野の狭さに気付かされる〝本物〟に出会う


 SNSが発達して、また、いわゆる空前のスピリチュアルブームのせいか、いわゆる霊能者、自分の言葉に置き換えさせていただくと、大多数の人間にとって〝見えないものが見える〟〝聞こえないものが聞こえる〟という人が、あちらにもこちらにも現れている気がします。

 1990年代から2000年代のはじめは、私自身、占いを習っていることもオープンにできない時代でした。霊能力や占いとは、もともとの資質のある人や、限られた場所で特殊な技術を身につけた人だけの世界から、決して表には出てこないものでした。ところが、今は全然違います。霊能力も占いもカジュアル感覚な〝スクール〟だとかで学んですぐにお仕事にする……こうした流れに驚きを隠せません。疑り深い私は、これだけ地平が広がれば、水準以下や〝偽物〟が今まで以上にいっぱいいるんだろうと思ってしまうからです。

 私個人、占いは高度な学問だととらえていますので、こちらは習熟度によって差が開くのは当然だろうと考えています(この認識が正しいか否かはわからないということを、一言断っておきます)。一方で、人生の折り返し地点を目前にしたくらいから、不思議な力を持つ人たちに助けてもらうことが起きました。とはいうものの、自身の性格上、簡単に信じることはできませんでした。今も半信半疑です。それでも、この人は〝本物〟だと思う人たちはいました。

 最初に〝本物〟だと思った人とは、人づてで偶然に出会いました。自分の身の回りで起きる辛くて苦しい出来事の数々に対して、自分ではどうしようもなく、あがいていた時期のことでした。その方の能力は、「気」を診断したり、調整したりするものだということでしたが、私にはよくわかりませんでした(当時は、人間関係のトラブルを多く抱え、ストレスによる心身の不調がありました。それを改善したくて習いもしたのですが、まるで身につきませんでした)。その方は、私が二十年後くらいに知る、しかも普通には知りえないことを、どういうわけか初対面で言い当てもしました。

 その後、「ツインレイ」らしい異性に出会いました(今現在は、この〝概念〟と〝市場〟とは距離を置いています)。その解決策をネットで探し求め、実際に会ってみた2人は〝本物〟だと思いました。2人ともヒーラーといった類の能力をお持ちなのではないかと思いますが、1人は忽然と姿を消し(連絡やサイトへのアクセスができなくなった)、もう1人の方にはいまだに何かの折に相談にのっていただいています。

 さらにその後、チャネリング系の能力のかなりの力のある方に出会いますが、この方は最初の方と同じように、人づての偶然で出会いました。そして、最近もう1人、ネットを検索して出会ったチャネラーの方には、前世の問題を中心に相談にのっていただいています。

 何を言いたいかというと、私はある時に、現実の問題が現実だけの問題ではないということに気づいたということです。現実的な問題、例えば身体や人間関係の困難を物理レベルで解決を図ろうとするのではなく、思念(思考や感情)、感覚の問題としてとらえ、特殊な能力を持つ方たちに何らかの形でそこに働きかけてもらうことにより、身体や人間関係の問題に立ちはだかる壁を突破してきたことを〝経験的事実〟として持っているのです。

 これには逆バージョンもあります。コロナ禍にネット上で知り合った友人は、「断捨離」の実践を通じて、気づかないうちにだんだんと身体や人間関係の問題に向き合い、心の自由を得たと言います(この方は、提唱者・やましたひでこ氏の公式のトレーナーの資格も持っていらっしゃいます)。思考や感情、感覚という目に見えない世界に対しては、実際のところ「断捨離」のような目に見える形、物理的なアプローチが有効であったというのです(実のところ、これまで述べたような出会いと並行して、私も汚部屋の片付けや掃除をしていました)。

 私たちは、心には心、物には物と、同じ次元でのアプローチによる解決しかないと、頭から決めつけているところがないでしょうか。ところが、真の解決法とは、両者を立体的にとらえて人間存在の全体を俯瞰することで、根本から立て直していくものなのだという気が最近しています。そして、期せずしてこのことに気づかせてくれた、〝本物〟と私が認識した指導者の方たちは、個人の身心とその周囲だけにとどまらない空間や時間といった次元が加わったものの見方ができるのではないかと感じています。

 人間関係が辛くて苦しい、見えないものが見えない、聞こえないものが聞こえない状態というのは、視野が狭いのではないかなどと言うと非難されそうですが、私自身、今でも相談にのっていただいているヒーラーさんに、最初にお会いした時には失礼な奴だと思ってブチ切れて帰宅したのを覚えています。知識を学んでわかっているなどと慢心して、現実の世界、スタート地点からすでに何も見えていないし聞こえていないのです。数々の〝思い込み〟の鎧を脱ぎ、閉ざされた部屋を出て広い世界にその身を置かないとならないのかもしれません。

 私が、自らの前世や先祖のことがぼんやりと、自分自身でもなぜか〝わかる〟ようになるには、こうした〝本物〟の方たちとの出会いがあり、周囲の物理的な環境の整理がなされ、人間存在に関する視野の狭さを払拭することが始まりだったと言えます。

2024年3月22日金曜日

【小説】時機到来


時機到来
理想を追い求め、ひたすらにつないだ。

 

 かつて、多くの本とそれを学ぶ人とが集められたこの地には、小さな博物館が建てられていた。私はたまたま足を運んだそこで、隣接する寺の本尊であったという菩薩像のレプリカを見た。ーーどこかでこの像を見た覚えがあるのだが、果たしてそれが、別の博物館の特別展なのか、子どもの頃の遠足なのか、図録か何かなのか、まったく思い出せなかった。

 本尊はすでに失われたと思っていたところ、めったに開帳しないだけで現存しているということを知った。ーー日時を限って菩薩像を拝観することができると案内された印刷物を、博物館の片隅で見つけたのだった。私はその企画に応募し、しばらくして詳細が記された案内が届いた。

 その日、数百年前に作られたというその像に私は見入った。本物は、年数相当の状態であったにもかかわらず、細やかな光を放っているようであった。本堂を出る時に、本堂に入れる人数も限られているため、開帳時は毎回抽選となり、何回も応募して初めて拝むことができる人が多いことを話している人たちがいた。

 次の日、昼の光の中で眠気を誘われてうとうとした時、昨日見た菩薩像が現れた。像は作られたばかりで、本堂の窓より入る光を受けて美しく輝いていた。私の他、何人かが像を見上げていた。

 私たちの主君が語った。なぜこの地に多くの書物と人間を集めたのか。それは、智が人々を救うことが可能だからだと。ただ、それには時間がかかる。この菩薩は、学びをつなぐ人々を守護し、機が満ちたその時には、仏としてこの世に姿を現すのだという。

 「その時が来たら、皆で集い、仏の下生を迎えようではないか」

 そう言って微笑んだ主君は、しばらくしてこの世を去った。   

 「世は移り変わり、それを可能とする技術が開発され、あなたの目指した世界が訪れたのですね」

 光の暖かさを感じながら、数百年とは、思ったより早い再会がなったと、私は感じた。

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