2024年5月31日金曜日

マンデラエフェクト問題2024②ー私の場合、あなたの場合ー

           

 今回の記事は前回のつづきとなります。

 「人が変わったかのように」

 本当に、以前のその人と今のその人が入れ替わっているのではないかと思うような感じさえするようです。ーー次回は、、ここ一年間くらいで自分の身に起きた「マンデラエフェクト」を疑うような体験をお話したいと思います。

「マンデラ・エフェクト問題2024①ー私の場合、あなたの場合ー」

集団的ではない限定的マンデラエフェクト(マンデラ効果)がある? | 輪廻する魂の「物語」〜くり返す前世が終わりを迎える時〜 (szsymphony.net)

 母親が長いこと常連で通っていたパン屋さんが、閉店することになりました。あまり表に出てこない店主が、閉店前にわざわざ母に言葉をかけてくれたそうです。店主は途中で涙ぐんでしまって、なぜ閉店するか理由が聞き取れなかったと言っていました。そして、母親は最後の日に店に行きたかったけれども、行けなかったということでした。

 閉店して数か月経ち、母親とそのパン屋が入っていた建物近くを通った際に〝店閉めちゃってさびしいね〟と私が言うと、母は次のように話してくれました。ーー建て替えで店を立ち退かなければいけなかったと店主が話していたこと、そして、最終日は店の閉店を惜しむ人でにぎわっていた、と。

 〝前聞いた話と全然違うじゃん!〟

 母親も高齢ですので、勘違いや思い込みだろうと思って、私はうんうんと聞いていました。先に聞いた話よりもよい思い出に変わってるわけですし、水を差すつもりはありませんでした。

 しかしながら、どうしても納得いかない件もありました。妹が遭遇した芸能人の話です。

 妹は仕事柄、職場で有名人の対応をすることがたまにあるそうです。もちろん詳細は伏せてですが、ある時、私の好きな俳優さんだったので、〝かっこよかった〟と言って教えてくれたことがあります。つい最近、その件が話題にのぼったことがありました。ーー妹は、前に教えてくれた俳優さんと違う俳優さんの話をしたのです。

 私は〝それって、〇〇さんじゃなかった?〟と聞くと、妹は文字通り首をかしげて〝そうだっけ?〟と言いました。私は先に名前を聞いた俳優さんも好きですが、後から聞いた俳優さんは三本の指に入るくらい好きなので、間違えるはずはありませんでした。確かに、二人の俳優さんの名前には共通する文字もあります。彼らは、妹もよく知っている、そうでなくてもかなり有名な俳優さんです。

 この話には続きがあります。YouTubeのマンデラエフェクトに関する動画を貪るように見たと前回の記事で書きましたが、その時期に動画をひとつ見終わった後、広告動画が流れ始めました。ーーなんと、妹が最初に話をした俳優さんの主演のネットドラマの広告でした。

 私は十代前半に眉村卓さんのショートショートSFが好きだったのですが、未知の支配者にもてあそばれるかようなその世界に紛れ込んでしまったのかと、頭がクラクラしました。次第にそれは恐怖にも変わったのですが、頭がおかしいと思われたくないので、当然、簡単に他人に相談したりはできません。

 (③につづく)

2024年5月30日木曜日

マンデラエフェクト問題2024①ー私の場合、あなたの場合ー


 「人が変わったかのように」

 これは、私が中学・高校の教員をしていた時には、経験的に使用したり、されたりする言葉でした。問題行動を起こした生徒や進路に対して意欲に欠けていた生徒が、何らかの出来事をきっかけに言動や生活が一変し、性格まで変わってしまったかのようになった時に必ず登場した定型表現でした。

 学校教育の現場を離れて数年経ち、独身で子どももいない私が、自分の家族にこうした印象を持つなど、考えたこともありませんでした。年を取るほど頑固になり、自分を変えることなど難しくなるというのが人間に対する一般的な見方ではないでしょうか。

まるで別人のよう
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_27.html

 皆さんは「マンデラエフェクト(マンデラ効果)」という言葉を聞いたことがありますか。私はもはや、どこで最初にこの言葉を知ったのかわからなくなってしまいました。気づいたら。YouTubeのフィードにこれを話題とした動画が次々と上がってきて、貪るように視聴しました。

ネルソン・マンデラは、名高い自由の闘士で、反アパルトヘイト活動家であり、27年間を獄中で過ごした、復活と苦境の伝説的人物だ。しかし、心に響く彼の物語は、人々の集合的記憶の中でしばしば歪められ、多くの人がマンデラは1980年代に獄中死を遂げたと思い込んでいる。だが現実はそうではない。マンデラは釈放後も、長く充実した人生を送った。1994年から1999年まで南アフリカ共和国の大統領を務め、2013年に95歳で死去した。

このような事実にもかかわらず、多くの人々がマンデラは獄中で死んだという記憶を強く信じているのだ。この唖然とするような現象、すなわち真実ではない事柄や出来事を、大規模に集団で信じ込んで記憶してしまうことを「マンデラ効果」と呼ぶ。興味深いことに、この現象はさまざまな状況で広く観察されている。

事実と異なる「偽の記憶」を集団で共有する「マンデラ効果」はなぜ起きる? | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)

 オカルトっぽいサイトではなく、アメリカの経済雑誌『Forbes』の記事ならばマトモだろうと思って引用しましたが、逆に〝え、フォーブス!?〟ですね。ちなみに、この記事の執筆者は「人間の心の能力」を落としどころとして筆を置いています。ーーまあ、そうですよね。

 ただ、この現象ではいくつか代表となる事例があり、オーストラリア大陸の位置については私も違和感を覚えたので中学校の時の地図帳を見たのですが、アイキャッチ画像(AIが描きました)のように東南アジアのすぐ下(表現が不適切でしたら申し訳ありません……地理が苦手です)にあって度肝を抜かれました。

 前回の記事で紹介したBTTPさんも「マンデラエフェクト(マンデラ効果)」は何回か動画のテーマとして扱っていますが、最初に扱ったのは、死んだはずの母親が生き返ったというものだったと思います。そしてこれは、限定的な人間関係内(とそれにともなう限定的な場所)で起きています。

 視聴しまくった動画の中には、「個人マンデラ」と銘打って、職場の同僚がある日別の人になってしまった話などもあげられいました。また、「マンデラエフェクト」という語を用いなくても、スピリチュアル系の人の本を読んだ時に、話している相手が以前とはまったく違うことを言っているとか、自分の方が相手から〝こう言っていた〟と指摘されてトラブルになりかけたりとか、そんなことが増えているという話を目にもしました(物忘れとかいうのではなさそうです)。

 「人が変わったかのように」

 本当に、以前のその人と今のその人が入れ替わっているのではないかと思うような感じさえするようです。ーー次回は、、ここ一年間くらいで自分の身に起きた「マンデラエフェクト」を疑うような体験をお話したいと思います。

 (②につづく)

2024年5月29日水曜日

未来の私が過去の私に大丈夫だと言って聞かせた?

           


 昨晩は疲れていたのですが、参加しているコミュニティ等の連絡で用いているSNS(正直なところ、あまり使用したくない……)が使用できなくなってしまい、ネットで情報を検索して復旧ができないか試していました。また、必要があって、amazonのサービスで購入したコンテンツを確認して整理していました。そんなこんなで結局遅くなってしまった上に、前回に続き、いよいよ書こうと決心したテーマについてのウォーミングアップ的な内容となるのをお許しください。

まるで別人のよう
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_27.html

読まれていません、でも……。
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_52.html

 実は昨日、地方都市時代の辛い記憶や感情がよみがえるような状況がありました。仕事がらみで思い出してしまったので仕方がないのですが、同時に、それが自分の人生において必要な過程であったことにも気づかされたのです。なぜならば、その経験がなければ、今の良い状態には至ってなかったであろうと推測されるからです。

 そしてその晩、かつて購入してすっかり忘れていた楽曲がAmazonのコンテンツに残っていたことに気づきました。ほとんどが地方都市時代に購入したものでした。聞きたい楽曲はCDレンタルを利用していた時期なのですが、地方都市では近くに店がなく、車の運転ができない自分は仕方なく、Amazonで購入したのを思い出しました(中には、CDは持っていたけれども、地方都市に持って来なかったから買った楽曲もありました)。

 楽曲のラインナップがめちゃくちゃで疑問だったのですが、視聴して思い出しました。あまりに辛すぎて、首都圏で働いていた時に同僚がカラオケで楽しく歌っていた歌や、当時を思い出してがんばろうという歌だったのです。ーーそれらに励まされた記憶がよみがえり、思わず涙してしまった歌もありました。

 お金を出して買ったものですし、CDのようにかさばるわけでもないので、残しておこうか少し迷いました。しかしながら、中には数曲、ツインレイらしき人物と出会った頃に購入したのではないかと思い出された歌がありました。ツインレイの概念と市場に疑問を呈している現在の私にとっては、〝これってほとんど黒歴史だわ〟としか思えなかったため、潔くすべて削除しました。

 削除のアイコンをクリックした時に、期せずして私は〝ありがとう〟とつぶやいていました。

 地方都市時代について思い出す際には、職場の特定の人物数名とともに、ネガティブな感情がおさえられません。それでも、三年もの間そこでの仕事と生活が続けられたのには、どこかでこの三年間は必要な経験であり、大丈夫だという結論ありきであったかのように思える時があります。

 一年くらい前にYouTubeのフィードに現れて以来、毎週の更新を楽しみにしているだけでなく、すべての動画を見終え、リピートまでしているチャンネルに『BTTPのタイムトラベルや不思議な話』があります。その中で、「退行催眠」を用いて過去の自分に働きかけた体験が、当時の本人の過去の体験として確かに記憶しているという興味深い内容のものがあります(「退行催眠」以外の働きかけによっても、同様な現象が起きていることが証明されているのが、BTTPさんの他の動画でも説明されています)。

 辛く苦しい地方都市時代を励ましてくれた楽曲に〝ありがとう〟と告げたのは、現在の自分から過去の自分に向けての一言であった気もしています。そして、購入したまま存在も忘れてAmazonのコンテンツに残っていたそれらの楽曲というのは、まるで無意識下に潜んで手放せないでいた記憶であったかの印象を受けます(私はこういう現象を〝シンクロニシティ〟だと考えることがあります)。

無意識下のゴミ
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_14.html

 昨晩は久しぶりにかなり遅くなってしまい、今朝もその分いつもよりずいぶん遅くなってしまいました。しかしながら、どことなくさっぱりした思いを抱きながらこのブログを記し、地方都市時代の歪んだ思いが薄れているのを感じています。ーー実際、AmazonのコンテンツやSNSの復旧をがたがたやっているうちに、無料で楽曲を楽しめる方法がたくさんあるのを知りました。初めて聴く素敵な楽曲に耳を傾けたりしながらこれを書いています。

 私が前世・過去世や輪廻転生に対する関心と同時並行的に「時間」についてBTTPさんの動画を熱心に視聴したところで知ったある概念が、自分にはまったく縁がないと思われていた世界に実際に足を踏み入れる最大の契機となりました。

 (次回はいよいよ、それについてお話できればと思うのですが……。)

2024年5月28日火曜日

読まれていません、でも……。


 このブログを始めて二か月が過ぎ、記事も七十近くになりました。どういうわけか書こうと思うテーマには事欠かないのですが、フルタイムの仕事ではないとはいえ、正直、毎日……というのはしんどい時もあります。

 今日は、本業も副業もあったために何となくぐったりしています。それでも一日一記事を守っているのは、これを「行(ぎょう)」であるという認識で取り組んでいるからです。それというのも、前世・過去世の問題でお世話になっている方の話を聞いて、すべきであると思ったことが動機です。でも、継続してどうなるのかはいまいちよくわかっていません。しかも、無料で開設できるブログを用いることも検討しましたが、Xサーバでドメインを取得してWordpressを使うことを勧められたのと、三年は続けるように言われたので、Xサーバのレンタル代を三年間一括払いして退路を断って続けているという馬鹿っぷりです。

 その後状況が変わり、今現在は本ブログをはじめ「行(ぎょう)」とされたことをすべてやめています。これについては別のところで言及するかもしれません(しないかもしれません)が、こちらで書くのはやめておきます。

 ただ、一か月ほど継続したある時、〝読まれていないのも同然なのに、人を助けるという「行(ぎょう)」になど、なっていないのではないか〟と、不安になりました。ヒーラーさんにあわてて質問したところ、大丈夫だというお返事でしたが、その理由は明確に示されませんでした。

 大丈夫だと言われても釈然としないまま継続してきて近頃は、〝きっと未来に読む人がいるからいいんだ〟ということを思いつきました。最新の物理学では、過去・現在・未来という「時間」は存在しないということです。だとしたら、経験上、ブログもYouTubeも開始してずいぶん経たったところで閲覧・試聴の数が伸びてきますので、それでいいのかもしれないと納得しました。

 実は、昨日の記事の最後で、家族が「まるで別人のよう」になったことについて書きたいと言っていたのですが、心身の疲れがありましたし、時間も遅くて今日中には書きたいことを書き尽くせないと思い、「時間」に関わる常識を外す話題に今日は触れてみました。

まるで別人のよう
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_27.html

 「まるで別人のよう」問題には、いわゆる「時間」の常識を外すことが必要になるので、今日のところはメインテーマ前のウオーミングアップ(?)と思って読んでいただけたのであれば幸いです。

2024年5月27日月曜日

まるで別人のよう

                              


 私には妹がいますが、大人になるに従って距離ができていきました。ところが数年前頃より、一番身近にいる自分と最も気の合う人間とまで思えるようになっています。どうしてこれまで気づかなかったのだろう……と不思議にも感じました。お互い年を取りましたし独身なので、今後は姉妹支え合う必要があるので歩み寄っただけかもしれないのですが、それだけではない気がしています。

 先日、長いことお世話になっているヒーラーさんから「思いがけないいきさつで、エネルギー的なヒーリングの技術を学ぶことに」なった話をしました。

花は切られて与え、野菜は食べられて嬉しい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_19.html

 こちらのヒーラーさんとは、五、六年前に対面で話を聞いてもらうというセッションを受けたのが最初で、しばらくは年に数回それを続けていました。今思えば、ヒーラーさんは私の〝成長〟の度合いもしっかり見ていらしたのだと思います。数年を経て、すすめられてヒーリングを受けるようになりました。とはいえ、自分でヒーリングをすることなど考えたこともありませんでした。ーー自分にできるわけないと思っていたからです。

 しかしながら、その思いを変えたのには理由がありました。急に母親の具合が悪くなったのです。整形外科的な症状です。私は、以前ツインレイ関係のちょっとしたイベントで知り合った方で、ご家族の曲がった骨格がヒーリングで改善した写真を自身のHPに掲載している方を思い出して、家族のために施術してもらえるのが可能か否かのメールを送りました。しかし、何日経っても返信がありませんでした。

 〝自分でやれるようになればいいんじゃないのか!?〟

 突然、こうひらめきました。そういえば、ヒーラーさんが不定期開催の講習会をSNSで募集していたのを思い出し、参加すればいいのではないかと考えたのです。一応、自分でも技術が身に着くのかどうか(無駄金を払うことはないか……私はドケチです)を確認し、参加を決めたのです。ただ受講中はずっと、できているのかどうかはまるでわかりませんでした。

 帰宅してから毎晩(何度も言いますが……私はドケチです。もとをとります)、教わったヒーリングを母親に向けて行っています。効果のほどはわかりません(許可はとらないとだめだということでしたので毎晩ヒーリングをすると母親に伝えましたが、真に受けてはいないはずです)。しかしながら、ヒーリングを継続して一週間くらいして、母親の態度に変化がありました。病院で診断された病名について書かれた本やTV番組で症状について理解したり、奨励された運動を毎日したり、手術の意志を固めたので早い方がいいからと診察日を変更したり……これまでの、他人事かのような無気力な感じがなくなっていました。

 〝なんだか別人になったみたい……〟

 そうなのです。ヒーリングが効いているかどうかはわからないにしても、家族が別人になったのではないかと思う時があるのです。

 (……とうとう、このブログで書こう書こうと思って先延ばしにしていた事柄について、次回は書いてみたいと思います。)

2024年5月26日日曜日

「物語」を聞いて涙しているのは「私」だけではない?

           

 このブログでは、小説や映画、漫画やアニメなどを含めた「物語」についても、前世・過去世あるいは先祖(家系的なカルマ)といった視点から取り扱っています。

 私は古典文学作品類を対象とした研究に取り組む中で、数限りなく集められて今に残る物語にどういう役割があるのか気になってきました。

 ※研究対象として〝切り捨てられる〟ものには、へそ曲がりゆえに特に関心を抱いています。

読了したから何かが起こると期待するのは違う
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/szsymphony.html

大根も助けられた
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_25.html

 さて、私がこのブログで書き綴っているようなあれこれに本格的に関心を持ったのは、数年前、地方都市で限界を感じながら働く毎日の中で突然、自分の先祖のことがわかったということに端を発しています。その後、首都圏に戻り、長く続けた仕事を辞めることになり、コロナの自粛生活をしていた時に、ネットを介して超マイナーな時代の歴史コミュニティに参加しました。その半年後、自分の先祖の一族がその時代に活躍する漫画の連載が開始されました。

 漫画の連載が始まってしばらく後には、先祖が躍進した時代を舞台にしたTVドラマが放映されました。正直、昭和や平成の時代にはありえないような現象でした。時間の自由のきくようになった私は、それらの漫画やTVドラマをじっくりと鑑賞したのももちろんですが、先祖の一族とその時代に関する研究書や古典文学もたくさん読みました(今もです)。

 私には、何十年も前から、自分の中に自分でない無数の誰かがいるような感覚がありました。しかしながら、かつてない現象の中で日々過ごしていくうちに、無数の誰かの存在が自分の内から消えていくようにも感じるようになりました。ーーこれは、どういうことなのでしょうか。

 先祖の一族が活躍する漫画ですが、かなり有名な作家の意欲作です。不思議な導きがなければ私も知らなかったその一族が、こんなにもメジャーになったことなどは、それこそその漫画の舞台となった時代以来なのかもしれません。さらには、作品が描き出す〝新解釈〟が、無理解に浮かばれなかった一族の、無念のうちに歴史に埋もれた多くの魂を、救ってくれたのではないかと私は考えています。

 史実が書かれていないとして歴史の分野では切り捨てられる「物語」ですが、文学の分野でのとらえ方はまた違います。例えば『平家物語』には〝鎮魂〟の役割があるといったことがと言われます(小泉八雲の『耳なし芳一』の話では、それが端的にとらえられていますね)。なにも古典文学だけではなく、現代においては漫画やTVドラマが十分に現代の「物語」として機能して、私の身体を構成するDNAに〝存在する〟ご先祖様たちもまた、私とともに涙しているのではないかと思うのです。

 私が嫌いな歴史上の人物は、先祖とその主君を苦しめたゆえに〝嫌い〟なのです。しかし、その感情もだんだんと薄れている自分がいます。おそらく、「物語」を通じて先祖が〝理解された〟という思いと、先祖と敵対した相手に対して〝理解する〟という取り組みは、私ひとりで行っていることではないからなのでしょう。ーー私の身体が私だけのものでないこと、決して自ら傷付けたりしてはならないことを実感するのです。

2024年5月25日土曜日

大根も助けられた

          


 先の記事で、『徒然草』で語られるある有名な話を引用しました。

読了したから何かが起こると期待するのは違う
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/szsymphony.html

 筑紫の「なにがしの押領使などいふやうなるもの」が「万(よろづ)にいみじき薬」というので、長いこと毎朝大根を二個ずつ焼いて食べていたという話です。ある日、「なにがしの押領使」の邸の警備が手薄だったところを狙って、敵対する人間たちが押し入ります。主人が危機的な状況に陥ったその時、「兵(つはもの)二人」が命がけで彼を助けます。その二人の顔に見覚えがなかった「なにがしの押領使」が素性を訪ねると、その二人は〝長年あなたが良いと思って食べてくださった大根です〟と言って消えたというのです。

 「深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ。」

 結果を求めることなく、ひたすら〝信じて〟継続すること自体の重要性を説いているとして、とりあげました。

 前世・過去世の相談をしていただいている方に、『徒然草』のこの話を紹介したところ、驚くべきことを指摘されました。

 〝これは大根も助けられていますね〟

 野菜にも、人間だった前世があるのだそうです(補足ですが、人間にも野菜だった前世があることになります)。ーー「大根」たちは、「なにがしの押領使」に対してかつて行った行為に対するカルマを返したのだと、私は理解しました。さらには、〝野菜は食べられるのを嬉しいと思っている〟ということも伺っていたので、「大根」どれだけ「なにがしの押領使」に対するカルマあったんだよ!?……と、ひとりでツッコんでしまいました。

花は切られて与え、野菜は食べられて嬉しい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_19.html

 私は古典文学を対象とした研究に取り組んでいますが、「大根」が命がけで戦う話などは、まっさきに研究対象としては切り捨てられます。〝科学〟であることを謳う歴史分野においては、切り捨てられる対象がほとんどです。思想や民俗・伝承の分野であっても、収拾して共通点等を整理することはできても、話自体の本質的な部分を扱うのは完全にアウトとなります。

 しかしながら、書かれて残されているもののほとんどが意味がないとされて〝切り捨てられる〟ということの方が、異常だとは考えられないでしょうか。へそ曲がりの私は、大多数が当たり前とすることを当たり前で終わらせることができません(理屈と実感としては、私の考え方の方が自然だという思いがあります)。ーー学術的にはNGとされるテーマに取り組むことは、私の使命や課題ではないかと思う今日この頃です。

2024年5月24日金曜日

【人間存在に対する新たな認識を得る作品紹介】コンドウ十画『スケルトンダブル』〈裏〉

          

 前回、コンドウ十画先生の『スケルトンダブル』を紹介しました。

【人間存在に対する新たな認識を得る作品紹介】コンドウ十画『スケルトンダブル』〈表〉
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/1-shonenjumpplus.html

 上の記事では、主人公の荒川ヨドミを中心として、簡潔にその魅力についてお伝えしましたが、この作品には〝裏主人公〟が存在します。彼が決意のもとに行動を起こして発した言葉を、昨日の記事を書くので作品を読み直した際に再び目にして、はっとしました。

 この先は「デュゲスの会」の目的ではない 多々良の目的でも 俺の目的でもない

 ※「デュゲスの会」は、作品の展開の上では主人公たちの側に対立し、〝裏主人公〟が属していた組織。「多々良」はその組織の代表で、すべての人類が「透明人間(スケルトン)」となる理想の世界を標榜し、計画性をもった無差別殺人によって「透明人間(スケルトン)」の存在を知らしめようと動き始める。

 加害したものは討つべき敵としてその人間の人生に立ち塞がる 「誰の人生に組み込まれなかった人間」であろうとも 「名前を残したい」それを想った人間がいる

 組織を作って代表になる人間の高邁な理想をはるかに凌ぐ、無数の人間(存在たち)の時空を超えた叫びに突き動かされるかのような衝動の重苦しさが漂います(〝裏主人公〟のこのセリフの少し前に、「デュゲスの会」に属しながらもその動機がまったく不明の人間がいましたが、彼女が主人公のヨドミに吐き出した言葉にも通じるところがあります)。

 前世・過去世のヒーリングを受けたり、その問題について自分なりに向き合ってきて思ったのは、人間(もちろん「私」も含め)というのは、現代では考えもつかないような罪深い行いを積み重ねてここに至っているという事実について、いかに無自覚であるかということでした。そして、幾多もの生命を犠牲にしてでも、自らの生命を維持しようとする苦しみと悲しみの中で、無念の思いを抱いて散った人間が無数にあったことにも、初めて思い至りました。

 現代社会を舞台とした作品で、漫画とはいえそのテーマを織り込むのは難しいことであると思いますが、『スケルトンダブル』の〝裏主人公〟は、自分の足元で〝無意味な〟生を終えたかつての同胞を「弔うため」のキャラクターであると同時に、人類の歴史においてまた、彼らと同じように息絶えた無数の生命たちへの〝鎮魂〟の役割を持たせているのではないかと考えました。

 『スケルトンダブル』は、もっと評価されてもいい作品だとあらためて思いました。しかしながら、こうした残酷な真実を描く作品は、〝本当にこと〟を描くがゆえに、決してバズったりすることがないのも宿命なのかもしれません。

[1話]スケルトンダブル – コンドウ十画 | 少年ジャンプ+ (shonenjumpplus.com)

2024年5月23日木曜日

【人間存在に対する新たな認識を得る作品紹介】コンドウ十画『スケルトンダブル』〈表〉

           


 妹からすすめられて最近読んだ、週刊少年ジャンププラスで連載中の作品『スケルトンダブル』が、大変興味深い内容でした。絵柄についての第一印象は、〝個性的なかわいい女性を描く作者さんだな〟でしたが、作品の核となる異形の生命体(?)類の形状やそれらが活動する描写に迫力があります。

 作品の題名ともなっている「透明人間(スケルトン)」の概念が難解で、一、二度読んだだけでは理解しきれないのですが、そうしたテーマを漫画で自在に表現する新世代の才能には、驚かされるばかりです。

 主人公の荒川ヨドミは高校生で、八年前に父親が新宿の繁華街で奇怪な死を遂げています。ある日、家に届けられた謎の荷物を開封して「透明人間(スケルトン)」となったヨドミは、父親の死の真相に迫っていきます。超越的な存在へと自らが変化したか、あるいは、異常な事態に対峙するかのいずれかである主要な登場人物は誰一人、同じ方向を向いていません。作者がしっかりとそれを意図しているか否かはわからないのですが、現代人への強いメッセージ性を帯びている気がしています。

 そして、肝心の「透明人間(スケルトン)」が何であるのかは、特別対策室という組織で透明人間化している金床という女性が、ヨドミに持論を語るシーンがあります。「天狗の隠れ蓑」や「デュゲスの指輪」を例にとり、「多くの物語の中で神性と不可視性は切り離せない存在」である点を指摘した上で、「透明人間(スケルトン)」はその「大元(おおもと)」だとして、次のように述べました。

 この能力の「本来の持ち主・・・・・・」は数多くの伝承の興りと繋がっていて 見えるヒトが殆どいなかったからこそ その実像と行動は民話・伝承という歪んだ形で今日まで伝わっている

 「本来の持ち主」の形状(骨)と権能(血)の極一部を人類が利用するためのシステム その現在の歪んだ形の呼び名が透明人間(スケルトン)

 「透明人間(スケルトン)」には生体的な適性がないとなれないのですが、彼女の熱量に押され気味のヨドミに対して金床は、「生きててこれしか好きになれなかった」と伝えます。確かに、作品で描かれる彼女の言動を見た限りは、無気力か暴力で社会から逸脱するギリギリのラインを生きてきたのではないかと想像されます(彼女の遠い目が印象的です)。

 一方、作品世界内では〝敵方〟にあたる集団の中に、彼女と同じ属性の人間がいるのですが、それぞれの生きる意味は、その個性によって分岐するのではないかと見受けられました(透明人間(スケルトン)の「力」が「本来の持ち主の身体構造」に依拠する事実と似る?)。
 彼・彼女は、かなり極端な人生の使命や課題のある人間の例ではないかと考えます(他にも、金床以上にその意味がわからないで、ヨドミの視点を借りて、読者もまた、その理解と受容に苦しむ人間が登場します)。

 そうした反面で、「透明人間(スケルトン)」の存在などまったく知らなくとも、父親を亡くして以後何を考えているのかわからないヨドミに〝寄り添う〟友人たちや学校の教員の存在も、作品の中では際立っています。ーーヨドミが足を踏み入れた世界とは一線を画しながらも、彼らには彼らの、生きる使命と課題があり、ヨドミの人生と自らの人生との交錯する地点のある人間です。

 もぬけの殻だと周囲は見ていたヨドミが、誰も知らないところで着実に〝自らの道〟を進んでいたことがわかる場面があります。そのヨドミを〝窮地〟から救った教員は、ヨドミが考えていることを察知していました。現代社会は〝黙って見守る〟〝観察する〟〝変化(異変)に気付く〟といった能力を軽視し、その力が社会全体でも個人でも落ちてしまっていることを思い知らされます。

 本来、他者とは決して交わることができない人間という存在の厳しさを描きつつも、偶然にも同じ時空間に居合わすことになった人間同士のあり方を示唆する点でも、新時代を開く秀作であるという印象を受けました。
 あと数回で最終回と知り、もっと長く〝語れる〟テーマなのにもったいない……と思います。もしかしたら、まだ時代が追いついてないのかもということを感じてもいます。

[1話]スケルトンダブル – コンドウ十画 | 少年ジャンプ+ (shonenjumpplus.com)

2024年5月22日水曜日

感謝して終わりたい

           


 約半世紀の人生を振り返り、〝あのときこうしていれば……〟という出来事がいくつもあります。これまでの私にとって、〝選択〟の際の最優先事項は自分自身の意志ではなく、父親や周囲の思惑でした。そして、両者の落としどころを見つけて〝それが最善である〟と信じ込み、実行できる(多少無理があってもする)ことに神経をすり減らしてきました。

 その結果、〝選択〟の誤りが、環境の不一致や人間関係の軋轢を生んできました。

 研究をしたくて就職か進学かで悩んだ時も、父親がどう思うかを気にして、自分の意志は宙ぶらりんだったことが今ならわかります。進学はしたものの、指導教授との関係に大きな問題が生じて、以後十年間も研究を封印することになりました。

 ずっと私は、指導教授が悪いと思っていましたが、それは誤りでした。何事も自分が悪かったのです。自分が何を本当にしたいのかわからないまま、父親の思惑にもとらわれて、中途半端な気持ちで進学した罰が当たったのだと思います。ーー先生だって、そんな学生に無駄な時間をかけたのは迷惑だったはずだと、今になって猛反省しています。

 最近、論文を書くために必要な文献を求めて、母校の図書館に足を運んでいます。今日、図書館の前で見覚えのある方が歩いて来ました。何十年も経って、髪に白いものがたくさんまじり、足も弱くなられていましたが〝先生〟だと気づきました。少しためらいましたが、声をかけて挨拶をしました。私のことを覚えていらして、今何をしているかもご存じでした。

 しばし立ち話をしてお別れしました。〝ああ、わだかまりなくお話できてよかった〟とその時は思ってほっとしましたが、時間が経ってからふと気づきました。ーーああ、御礼を言い忘れているじゃないか!

 事実、先生のおかげで私は、この年になっても続けられていられるだけの研究の基礎を身に着けることができたのです。そして、これは詳しくお伝えしなくていいですが、進学先でしっくりこない研究を続けなくて済んだから、時間はかかったものの、自分が本当は何をしたかったのかがわかって、それに取り組めてもいるのです。

 退官まで数年ということでしたので、その時には感謝の気持ちを手紙ででもお伝えできればと思っています。

 まだ何人か、謝罪と感謝をしないといけない人たちがいます(まだ、気持ち的にそこまでには至れないという人も何人かいるのですが……)。もはや人生も終わりが見えてきて、できれば全感謝で終わりたいと願うのです。

2024年5月21日火曜日

継続の障害

           


 先日は、継続することの重要性についてお話いたしました。
  
※下記リンク内で紹介した記事も読んでいただければ幸いです。

継続が大事
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_20.html

 さて、そうは言ったものの、自分の意志とは別のところで、継続の障害となるあれこれもあります。自分がこれだと思うことに取り組み始めると、必ずと言っていいほど、〝なんでそんなことをするのか〟〝やめたほうがいい〟という人間が現れます。

 数年前、SNSで小説やイラストをアップしていたところ、当時参加していたオンラインのコミュニティの人で文章を書くことを仕事にしていて、なおかつ、百貨店の画廊で絵を出すことになったいう人から、〝下手だからやめた方がいいよ〟とDMが来ました。このコミュニティでは、〝タロット・カードの図像的な意味や歴史的な背景についての講座を開催してみたい〟と話した時に、〝需要がないし、金にならない〟と、YouTubeの登録者が一万人を超えたという人からも、そんなふうに断言されたことがありました。ある程度の成功者からそのように言われたのはショックでしたし、コミュニティの居心地が悪くなるのが嫌で、小説やイラストをやめ、講座の開催も諦めました。

 しかし、このコミュニティはその後すぐに、人間関係上の問題が各所で生じたことが原因で解散となりました。私も、小説やイラストを再開し、講座もスタートして今に至ります。どちらも爆発的な人気や多額の収入にはなっていませんが、作品に共感した人たちと占いを学問的に学びたいという方たちが、長く応援や受講という形でかかわってくださっています。

 かつて私は、多くのフォロワーがいなければ意味がない、稼ぎたいという思いにとらわれていたために、「障害」となるような人間関係を引き寄せてしまっていたと思うので、それに気づいた今であれば、自分が招いたことだったと冷静になれます。しかし、否定的な意見を押し付けられた当時は、気持ちがくじけました。ーーそこで諦めなくて本当によかったです。

 取り組みたいと思ったことに対してあれこれ言う人が現れても、皆さんは絶対に諦めないでほしいと思います。同時に、自分の側に何らかの〝欲〟があって、彼・彼女らを刺激してしまっていないかは、振り返る必要がありそうです。一般的なニーズや他者の思惑に合わせようというのもおそらく〝欲〟です。私の場合、研究活動がそれでした。〝認められる〟には〝合わせる〟のが当たり前と思っていました。今は、そんなの糞くらえですが(若い頃の私、本当にカッコ悪くて、ダサいわ……)。

 ただいくつか、前世・過去世がらみの「障害」もあるのかと考えています。ひとつは、いわゆる〝毒親〟です。私の父親は〝毒親〟ではなかったですが、ドリーム・キラーではありました。ゆえに、物心ついてからはずっと、親の顔色を見て、〝ハズレ〟を選択しないように〝合わせて〟いました。それが、何十年も自分が自分であることを殺してきました。ーーとはいえ、父親とは前世・過去世がらみで、そうされても仕方ない何かがあったのだと、半世紀を経て気づきました。

根負けしてきた長い年月の真相
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_29.html

 こういう場合は、努力と根性、欲を断とうとするだけでは通用しないでしょう(もちろん、それらをすべて経験した後に、場合によってはヒーラーやチャネラーといった能力者の協力を得て、前世・過去世に行きつくのかもしれません)。

 また、これは私自身の経験ではないのですが、かしずかれる前世・過去世の多かった人は、継続が困難なのではないかという気がしています。特に女性で、身の回りの世話は全部召使いがしますから……みたいな〝お姫様〟の雰囲気の漂う人は、独立して好きなことをするのが人生の課題だとしても、何事も長く続かない、お金を稼ぐのに向かないのではないかと思うことがあります。

 ただ、これは嫌味を言っているのではありません。逆に、人に頼る、任せる、委ねるというのは、私の超苦手分野です。また、思考するのが好きなので、女性らしい感覚を働かせて〝受け取る〟ことにも困難を覚えます。ーー自分が得意で、できることをするのが、本当に自分のすべきことなのかは、疑問に思うことがあります。〝お姫様〟たちは、努力を継続して、独立することがこの人生で求められているとしたら、私ができないことの中で、しなければいけないことは何か。

 最近はそんなふうに、「継続の障害」について、とらえてみたりもしています。

2024年5月20日月曜日

継続が大事



 物事が身に着くには、やはり継続が大事だと実感する出来事が増えています。

 例えば、数年前に徹底的にダイエットをして一度大幅に痩せたのですが、年齢のせいかお腹周りの肉がどうしても落ちなくて悩んでいたところ、YouTubeで体脂肪を減らすにはアンダーカロリーしかないという情報を得ました。栄養バランスよく一日の摂取カロリーを1500キロカロリーとするのを目標にしました(この数値は私にとって厳しめではあるのですが、「目標」を掲げることで、若干オーバー気味ではあっても、食べ過ぎなくなりました)。記録を取りながら半年続けたところ、確かに身体が絞れているのが実感されてきています(体重も減っています)。

 何かを達成するために継続は当たり前と思いつつ、すぐに結果がでないのは本当に辛いですよね。しかしながら、取り組まなければどうにもならないのです。ダイエットと同様、望ましくない状態を良くする、あるいは放置すれば実害が及ぶという点では、片付けや掃除などがそうかもしれません。これも、まとめてするのではなく、毎日少しずつでも継続し、改善された後にも良い状態を保つために習慣化が必要なものと言えるでしょう。

 ところが、例えば語学の習得など、できるようになったらいいな(海外旅行で役立てたいな、収入になるといいな)といった動機、習得するかしないかは自分次第というのだと、なかなか継続が難しいです。その国の言葉が話せなければ死活問題であるとなれば、話は違うと思いますが、〝習い事〟であれば、妥協して終わってしまうことも多い気がします。

 研究や占いなども、そうなる可能性の高い分野かと思います。ただ、私の場合はそうではありませんでした。知りたくて仕方なくて学び、人のために役立てたくて実践し続けています。そして、長年続ける内にレベルアップしているのも、実感できるようになりました。

 一方で、見えない世界のこと、チャネリングだとかヒーリングはまったくダメです。十年くらい前に〝気を診る〟講座に参加しましたが、周囲のできる人たちに比して〝ああ、自分には無理だ〟と思いました。また、必死さもありませんでした。自分にとって絶対に必要なものだと思えなかったからです。

 しかし、今は違います。チャネリングだとかヒーリングだとかの能力は、「知りたくて仕方なくて学び、人のために役立てたくて実践し続け」た「研究や占い」において、続けてはきたものの、謎で未知の部分を補完するものであることがわかってきました。ーーそうとわかれば、やるしかありません。

 なお、ヒーリングを習得したい思って行動し始めたのは、家族の問題を解決したいという一心からでした。その過程を経て、「研究や占い」のためにも自分が〝取り組まねばならないもの〟であることを悟ったのです。これも、継続の賜物であり、もはや〝ああ、自分には無理だ〟などと諦めるのではなく、〝続ける〟のだと決めました。

 ※〝継続が大事〟であることについては、以下の記事もぜひ参考にしてください。

進んでないわけではない
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_8.html

読了したから何かが起こると期待するのは違う
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/szsymphony.html

2024年5月19日日曜日

花は切られて与え、野菜は食べられて嬉しい

                             

 女性の多くはお花が好きだと思いますが、私はあまり好きではありません。水をあげたりとかいう世話がありますし、切り花はせっかくきれいに咲いているのを切り取るのは、かわいそうだと思っていました。

 さて、「思いがけないいきさつで、エネルギー的なヒーリングの技術を学ぶことに」なったことは、前回の記事でお話しました。

登り口はいつくかあっても頂上はひとつ
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_18.html

 その際に、花(切り花)と会話する練習があり、時間は与えられましたが集中力は途切れ、意味がわからず発狂しそうでした(笑)。ところが、花をまじまじと見たことなどこれまでまったくなかった私が、花が生命を持っている証である微細な組織などが見えてきたところで、切られても平気だというような感じが伝わってきました。さらには、用意した花を私は誤って踏みつぶしてしまっており、傷も付いていたのですが、それも気にしていない様子でした。

 そのことを講師に伝えると(講師は、このブログでも何度も話題にさせていただいている、長いこと相談をさせていただいているヒーラーの方です)、たぶんそうなのだと伝えた後に、花や植物の特徴を教えてくれました。それは、花や植物は与えることに寛容だということでした。だから、切られても大丈夫だというのです。同じようなことを、前世・過去世のヒーリングをしている方からも伺っていました。野菜は食べられて嬉しいのだそうです。

 花のあとは石を使ったのですが、花やきれいな石は女性が好む物であり、虚栄心を満たす物だと私は思い込んでいました。花や石は、女性の虚栄心を満たことに加担している〝悪〟の存在だと(笑)。でも、違ったのです。持ち主はどうであれ、花や石はそんなことお構いなしに、ただそこに存在して与えているだけだと理解しました。

 そうだとすると、花や野菜、あるいは石の純粋な思いを、清く美しい心で受け取ることが大事なのだわかりました。そしてもうひとつ学んだことは、〝花は切られてかわいそう〟というのは、私の偏狭な考えでしかなかったということです。

 人が同じ世界を見ていないことは、以前もこのブログで触れました。

他者は自分と同じ世界を見ているのか?
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_6.html

 人だけでなく、あらゆる生き物や物質がそれぞれに持つ異なる存在意義を知ることは、人間存在や世界に対する視野を広げるために重要だということに、あらためて気づかされました。女性性を高めるのに花が効果的というので、ここ何年か部屋に花を飾っていましたが、そんな〝目的〟を超えたところで、花を愛でることの本質について気づきを与えられました。

 まずは、花がただ〝与えて〟くれることを、素直に〝受け取る〟ことができるようになれればいいと思っています。

2024年5月18日土曜日

登り口はいつくかあっても頂上はひとつ

           

 占いを副業で初めてもう五年になります。そして五年目、実に、占いを学び始めてからは約二十年、専門的な研究を始めてからは約三十年にして、私の専門的な研究と占いとが奥底の部分で結びついているという確信に至り、前世・過去世の問題について取り組まねばならないという思いから、このブログとカードを利用した浄化の占術も始める決意をしました。

 そして、思いがけないいきさつで、エネルギー的なヒーリングの技術を学ぶことにもなりました。ところがこれすらも、先にあげた両者と通じていることを知り、驚きを禁じえませんでした。ーー自分にとってどれも同じくらいの関心はあっても、互いの接点はないと思っていたそれぞれが理論的に関連付き、これまでは明確な説明ができなかった事柄について、根拠や理由を示すことができるという嬉しさでいっぱいでした。

 ところが、その歓喜の内にいるのは自分だけなのではないかという、不安も感じ始めています。……というのも、占いの講座から離れる方がここ数か月で集中したことがあります。それに加え、長く鑑定を受けってくださったりしている方の中にも、私が〝方向変換した〟のかと戸惑われているような気配を覚えるからです。

 私にはずっと〝人から認められたい〟という、この身が焼き尽くされるのではないかと思うほどの渇望がありましたが、長い長い時間をかけてその思いと格闘して、今はだいぶおさまっています。でもそれは、少ない人数でも、私の鑑定や講座が気に入って長く参加してくださっている方のおかげでもありました。

 自分ではより良い、深い所へと進み始めている思いとは逆に、人が離れていくというのもまた辛いことです。しかしながら、これまで経験したことのない未知の展開であるのだから、失敗をしながら正解を探していくしかないのかもしれません。

 もちろん、占いの生徒さんや友人で、私がこのブログで展開しているような内容を理解する方、あるいは、まだよくわからないと言いながらも、自分に必要なものとして真摯に向き合おうとしている方もいらっしゃいます。私としては、登山のように登り口はいくつかあっていいものと考えるようにしました(登り口は違っても、山の頂上はひとつです)。

 それに、自分だっていつまでも同じ場所で同じ指導を受けていたわけでないのは、人生を振り返れば気づくことです。占いであれば、最初は誰にも告げずに一人で勉強していたわけですし、先生に会ってもごく少人数のグループで教えてもらい、やがて一部の友人や同僚を鑑定するようになり……と、段階を踏んで今に至っているわけです。それを思えば、〝舞い上がってないか、私!?〟と喝を入れて、まずはこつこつとブログを書き続けるのでいいのではないかと考えるのです。

 このブログは、いきなり頂上を目指していく登り口で、ほか、占いからの登り口、小説からの登り口、日本の文学・思想からの登り口という形で、難易度も異なり、頂上までは一本道であったり、途中で他の道に合流したりするのが当たり前と思えるようになって、それぞれの道もきちんと整備していきたいです。

2024年5月17日金曜日

落ち着かないゾーン

           


 先日、実家で食事をとりました。その時は、たまたま妹がいつも私が座る席にいて、かわりに父親は食卓を外れていたため、父の〝定位置〟で食べ始めました。

 しかしながら、どうにも落ち着かないのです。私は不機嫌そうな顔つきにもなっていたようで、妹には〝いつもの席を自分が座っていて申し訳ない〟といったことまで言われました(そんなつもりはなかったのですが……)。

 妹に指摘されて少し考えを巡らせてみましたが、父親の〝定位置〟の周辺がどうにも雑然としているのです。お恥ずかしい話なのですが、私は片付けが苦手で、かつての自分の住居は相当な汚部屋でした。自分の住まいが整理整頓されてきた頃から、実家が物にあふれて〝騒音〟のような居心地の悪さを感じるようになりました。父親の〝定位置〟は、その中心のように〝騒がしい〟という感覚を持ったのです。

 実家で生活している頃は、自分の部屋にも物があふれ、そのせいで風通しが悪く湿気でじめじめもしていました(もともと自室の場所がよくないこともありましたが……)。それでも、あまり気になりませんでした。それは〝当たり前〟の状態だという認識だったからです。

 実家が雑然としている最大の原因は、父親が物を自分の周辺へと置きまくり、自分のゾーンを拡大していくことにあります。しかも、家にいる間は四六時中テレビを付けてその音が止むことがありません。そうした環境に私は〝慣らされて〟いたわけで、実家を出た後も、汚部屋とそれに紐づいた生活習慣や考え方でしばらくは生きていたのです。 

 長く相談にのっていただいているヒーラーの方からは、出会った当初より〝波動を上げる〟ことを励まされています(私が父親の〝定位置〟に居心地の悪さを感じたのは、父親の波動と自分の波動の違いが大きくなってきたということだと思います)。波動を上げる際には、家族の中で身に付けてきた様々な〝重し〟を外していく必要があることを言われましたが、これが本当に難しいです。まず、気づかない。気づけたとしても、どうしたらいいのかわからない。時間がかかる。家族に理解されない。ーーいまだ、悪戦苦闘する日々です。

 現在、自分のことだけではなく、家族のことにも関わらなければいけない状況が生じてきています。段階を踏んでやっとここにまでたどり着いたという気持ちで、行きつ戻りつ進んでいくしかないのかと思っています。

 ※冒頭のAI画像ほどひどくはないですが、高齢者と汚部屋の問題は年々深刻にもなっているので、油断できません。

2024年5月16日木曜日

たったひとつの歪みから生じる

           


 仕事を始めてしばらくしてから、ひどい肩こりに悩まされるようになりました。しまいには、腕のしびれを発症し、通院等でおさまってはしびれ、しまいには腰の痛みを感じるまでになっていました。仕事を始めてからであれば二十年以上、思春期から頻繁に起こったひどい頭痛も合わせれば、三十年以上も身体の不調に悩まされてきたわけです。

 昨年、普段は行かない街にたまたま出かけ、一軒の整体院を見つけました。お若い方ですが、先生の腕が大変良く(人柄も素晴らしいです!)、通って一年で驚くほど状態が改善されました。

 初診の際に説明を受けておおいに納得したのは、一か所の歪みがだんだんと身体全体のバランスを崩すというものでした。私の場合、首の痛みと腕のしびれを主として訴えたのですが、下半身の悪い状態、もっと言えば骨盤の歪みに起因していると伺いました。

 一か所のバランスが崩れたことで、次にはここ、その次にはここという形で、大きな歪みへと変化していくのです(骨格や筋肉の模型や絵図で詳しく説明してくださいましたが、専門家でないゆえ、ざっくりとした説明で恐縮です)。

 また、カバンを持つときに五本の指全体を使うこと、特に小指を使うよう意識してほしいとも注意されました。親指だけでカバンのベルトをひっかけて持っていないかという指摘を受けたのですが、まったくそのとおりでした。

 それらの説明を聞いて、思い当たることがありました。私は足のサイズが大きく、履ける靴がなくて十代からずっと悩んでいました。さらに、仕事柄ヒールのある革靴を履き、かっこいいからと普段もかかとの高い靴を好んで履いていました。ある日、人に勧められて買った華奢なヒールのサンダルを、まったく履いていないことを思い出しました。履いてみるのですが、足指が窮屈で、絶対に足を痛めると思い、思い切って買取に出しました。

 その後にまじまじと足指を見て、外反母趾はほとんどないのですが、内反小指や寝指という第五指の変形と、それ以上に、第四指がクランクのように曲がっていることに気づいて愕然としました。これだけ自分の身体を長年痛めつけてきたのだと思ったら、足指に申し訳なく思いました。そして、窮屈な靴をいくつも処分し、YouTube動画を参考にして、足指の状態を良くするように努力しました。

 整体院を見つけたのは、足指の改善をはかり、ふくらはぎや太ももの形が良くなってきた頃でした。今思うと、私は無理をして窮屈な靴を履き続けたことで、足の側面で歩いているような身体の状態でした。まっすぐ立ててすらなかったことに気づいたところで、やっと整体院での説明に納得できる状態が準備されたということだったのかもしれません。

 実は、身体同様に一つの思考や感情が、外的世界や自己と他者の認識を歪める原因となります。前世・過去世での体験に基づく、強固な信念体系がそれです。前世・過去世についての相談をしている方からは、身体の箇所と原因となる前世・過去世が結びついているという話も受けています。

 まだそこまでの飛躍はできないという方もいらっしゃると思いますが、少なくとも私は、偏狭な考えに基づいて使用していた物と、それによって歪められた身体の苦痛に悩み、現在はそれらに一つずつ向き合いながら原因を探り、首や足の痛みで朝に目が覚めるという生活から脱却しているのは事実です。 

2024年5月15日水曜日

どうしても納得できない歌詞?

          


 以前にこちらのブログで、米津玄師さんの歌について何度か考えを述べました。

【ツインレイを知るための創作作品④-後編】謎の頭痛と松果体〔体験談〕https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_6.html

 ※上の引用記事には、前編があります。

 米津さんは別格だとしても、映画や漫画・アニメ、歌・音楽には、政治経済や産業技術、正統とされる学術文化の潮流とは別の、あるいは、それらの影響下にある社会を生きる人々のあり方が、おおいに反映されているものです。

  私はよく、YouTubeのフィードで出現した動画を話題として取り上げていますが、今回もそれです。「どうしても納得できない歌詞」というタイトルの【ガルちゃんまとめ】動画で、ひっかかったことがありました。

 コメントの多くは、いかにも昭和や平成の男尊女卑、主として男性側のご都合主義的な内容や、今とは違って一定の型にはまった恋愛感覚へのツッコミや不快感の表明が主という印象でした。

 しかし、そうした中でおもしろいと思ったのが、『アンパンマン』と『鬼滅の刃』の主題歌の歌詞に対しては「ツッコミや不快感」でなく、疑問が呈されながら明確な解答は出ず、コメントをした皆さんがなんとなくモヤモヤして終わっていることでした。

 まずは、『アンパンマン』です。

アンパンマンの「愛と勇気だけが友達さ」の部分なんですけど「だけが」っていうのが……友達いっぱいいるでしょアンパンマンって思ってしまう

 コメントを交わす皆さんの考察もなかなかですが、この主題歌(「アンパンマンのマーチ」)の歌詞は、原作者のやなせたかし先生の手によるものです。やなせたかし先生は、独自の哲学をもって子どもに向けた作品を書いていたことを聞いたことがあるので、きっと深い意味があるはずだと考えます。

 『鬼滅の刃』の方は、TVアニメ放映時に歌詞の変更もあったようです(詳しくは、ぜひ動画をご覧ください)。

家族とか殺されてるのに「ありがとう哀しみよ」って絶対ならなくない?ってずっとモヤってた!

 この歌詞以前に、『鬼滅の刃』のような暗くて重苦しいテーマの漫画が爆発的な人気になったということが、私としては当初かなりの驚きでした。……あっ、誤解のないように断ると、私は『鬼滅の刃』は漫画を全巻読みましたし、様々な点で近年の傑作の一つだという認識です。特に、前世・過去世の視点で作品全体をとらえた時には、多くの気づきや学びが含まれていると考えています(いずれ、本ブログでも、ストーリーやキャラクターを具体的に分析してみたいなどとも考えています)。

 話を歌詞に戻しますと、シンガーソングライターのLiSAさんが作詞されている「紅蓮華」という曲の一節が話題となっていました。確かに、TVアニメで放映するには規制のかかりそうな歌詞です。ただ、LiSAさんが意図しての歌詞なのかは否かは不明ですが、アンパンマン以上に違和感や抵抗感のある方は多いのではないでしょうか。

 前世・過去世があることを前提として、人間存在に対する視野を広げて一つ一つの出来事を理解していく場合には、三次元的な世界では「哀しみ」でしかないことが、別の意味合いを持って私たちに気づきと学びをもたらすことがあります。そうはいうものの、「哀しみ」に「哀しみ」以上の意味を、私たちはなかなか見出すことができません。

 作品の主人公である竈門炭治郎は、これまでの漫画の主人公とはまったくタイプが異なります。あらゆる点において、作品を読み進めていくに従って疑問が増すばかりでした。敵役であるはずの鬼たちにも、鬼となったそれぞれの救いがたい事情があり(鬼殺隊のメンバー以上に鬼が人間だった頃の身の上が語られているのも、これまでの少年漫画作品とは大きく異なっているかもしれません……)、炭次郎は彼らに対して、良いだとか悪いだとかいう判断を明確に下したりすることはありません。

 映画館まで足を運び、今でも心から離れない場面があります。遊郭編で登場した上弦の鬼は兄妹でした。鬼となった妹の禰豆子とともに彼らの最期を見届ける炭次郎は、自分たちが彼らであったかもしれない可能性をつぶやきます(その前に、兄の妓夫太郎を妹の堕姫が罵るその口を、炭次郎がそっと手でふさぐ場面で涙がこぼれました)。

 前世・過去世を前提として「私」という存在をとらえた際には、他者の人生が自分の人生であった(他者が自分である)可能性を、漫画の世界の表現によって、見事にこの作品は描いていると思いました。そうであるならば、「紅蓮華」の疑問に思われる歌詞も、違った意味が見えてくると思うのです。

 ただ、小学生の子どもの持つ私の友人は、『鬼滅の刃』の「遊郭編」というタイトルそれだけで不快感を示していました。多くの人々にとって、人間存在についての狭い視野から脱することの難しさは、作品を鑑賞する以前のところから潜んでいます。

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