2024年8月31日土曜日

身の丈を知る幸福


 台風10号、本当に変な台風ですね。降る予報が出ていても晴れていたり、土砂災害警報が発令されても雨が降る様子がないのですから……。

 金曜日はそんなこんなで先が読めないので予定を変更しましたが、大事なことに気づくことができました。

ひと眠りして私はこれを記す
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post_30.html

 そんな私の昨日は、日中はお勤めの仕事で終わったのですが、雨に降られずに行って帰って来ることができました。予定したとおりに仕事が終わらなかったり、好きなお店の機械が故障だかで営業していなかっただとかいうことはありましたが、そんなことは毎日生活していれば起きて当たり前のことですよね。

 帰宅してからは副業の占いの講座もありましたし、ネットオークションが即決で落札されたりしたため発送準備で遅くなってしまい、久しぶりに居間で眠りこけてしまいました。

 それでも、農家さんの作ったおいしい作物を調理して食べて、エアコンで湿気を押さえた部屋でそのまま眠ってしまえるなんて、ありがたい幸せ以外の何物でもありません。

 そういえば、仕事で使用しているある暗証番号が自分が記憶していたものと変更になっていて、苦戦している私に気づいた方が教えてくださって〝入る〟ことができました。私は〝変更したんですね〟と言ったのですが、雰囲気で察するに、どうやらそうではなさそうでした。もしかしたら、私はマンデラエフェクト(マンデラ効果)によって世界線をまた移動したのかもしれません(変更した暗証番号が、割り切れる数から〝割り切れない〟数になっていて、〝やっぱそうなんだよね、きっと……〟みたいに思いました)。

 しかしながら、それはもはや私にはどちらでもいいことです。集中力散漫なので、期間をおいてしまったために番号を忘れたのかもしれませんし、本当に変更になっていたのかもしれませんから、いずれにせよ〝勘違い〟なのだということでいいと思います。ーー穏やかに人生を終えたいと気づいた人間には、それはどちらであろうと、ただ受け入れて過ごせばいいだけの話です。

 今朝はうってかわって、居間で変な姿勢で眠ったせいか後頭部が痛くて、少し吐き気みたいな感じがあって目が覚めました。夢で別次元に意識が飛んでいる後遺症などと、以前であれば少し考えもしましたが、忙しくて整体を一か月以上受けていないので、調整してもらわなきゃと思いました。

 朝に副業の鑑定をして、習い事に出かけようと思ったら雨……。でもまあ、電車で行くので問題ないと思いました。どの段階か忘れましたが、今日は数か月おきに販売される物が売られている気がしましたし、私がひっそり欲しいと思っていた物が店頭に並んでいる気がしましたが、まさにその通りでした。

 徒歩での帰りに雨に降られましたが、私は別に雨がそんなに嫌いではありません。雷も、ゴロゴロ言っているだけの雷は、明らかに落ちる雷とは違うので、こちらも嫌いではありません。人混みが苦手なので、雨の日は街が空いていて、安心して用事が済ませられます。予報で雨と出ていなくて傘のない人が何人もいましたが、私は出る時に降っていたのでその点は心配なかったのもラッキーでした。

 先に記した、ひっそり欲しいと思っていた物は、濡れてしまうとまずいものでしたが、その店に着く頃には雨が止みました。それは、販売してすぐだったようですが数が減っていたので、無事手に入れることができてこれまたラッキーだったと思います。

 今日は一日(ついたち)ですし、穏やかな日常を生きられることに感謝して、地元の神社で手を合わせました。ーー私が身の丈に合ったことを望むようになったので、それに見合ったものが訪れているのだと考えています。私ができること、すべき範囲で、何事も与えられているから、それらを受け取り、役目であるらしいことについてはこなせばいいのです。

 本当に馬鹿だったなと思います。どこで勘違いしたのだろうと、自分の馬鹿さ加減に嫌気がさします。自分を過大評価して、誰かに利用されるとか、不安をあおられるだとか、焦るだとか、妬むだとか、そういう毎日とは決別します。さようなら。

2024年8月30日金曜日

ひと眠りして私はこれを記す


 これまで経験したことのないような変な台風は、雨雲の動きも列車の運行もまるで読めなかったので、本日計画していたことを二転三転させて、自宅に待機することにしました。

 数日前から体調がおかしく、数か月くらいほとんど起こらなかった食欲に襲われ、ある時期からおさまっていたひどい眠気に襲われ、自己嫌悪にも襲われています。

 今の私はただ、日々を穏やかに生きて人生を終えたいと思っています。これまではそんなことを思いもしませんでした。何かで有名になりたいとか、お金がほしいとか、好きな人に好かれたいとか、そんなことばかり考えていました。

 あふれる情報に嫌気もさしています。上に記したささやかな願いの他に、もしかなうのであれば、〝本当のこと〟を知りたいとだけ思っています。世界や歴史の未解明とされていること、謎とされていることについて、知ってみたいという思いがあります。

 他の人も、自分の心からの願いが明らかになって、そのために生きられるようになればいいのにと……切に切に祈ります。

 その考えに至れば、多くのものごとを抱え過ぎていること、雑音に煩わされ過ぎていること、そうしたことで不安だらけの自分に気づきます。

 私の前世・過去世には、様々な過ちがありました。ただ、いずれの前世・過去世でも「日々を穏やかに生きて人生を終えたい」ということが最初の願いだったかもしれないのに、なぜ余計なことをしてきてしまったのかと苦しくなります(自力ではもはや知ることのできない多くのそれらも、そのはずです)

 そのくらい、世の中は過酷だったし、その中で彼・彼女らが精一杯生きたというのは認めてあげたいです。彼・彼女らの苦闘を経て、私のいる世の中は変わったと信じたいです。

 日々を穏やかに生きて人生を終えたいーーこんなシンプルな結論に至るのに、私は何年もの月日とお金をかけてしまいました。しかしながら、輪廻転生を思えば、果てしない時間とお金以上の対価をかけているのでしょう。

 私のこうした結論は、他者から責められなければならない結論でしょうか(自分だけがよければいいという、身勝手な願いなのでしょうか)。世界が良くなっているとしたら、多くの人々が〝争いのない、誰もが幸福な世の中で生きたい〟という願いと祈りと、それにともなう少しの行動を起こすようになっているからではないのか……。

 私もその一人としてこの人生を終えようと思うのです。そうであれば、家の中で大雨や大風で命を奪われる危険をほとんど感じることなく、温度や湿度が快適に保たれた部屋で身体を休めていられることに感謝しかないことに、気づかされもするのです。

2024年8月29日木曜日

だんだんとリアルになっている夢

           


 私はかつては、ほとんど夢を見ていないと思っていましたし、見ても覚えていない、あるいは、嫌な夢ばかり見るといった傾向にありました(とはいえ、時々、今思い出しても不思議な夢もいくつかは見ていました。機会があれば、こちらでも紹介することがあるかもしれません)。

 ところが、ここ数年で夢が変化してきている気がしています。気づいたら、カラーの夢になっていました。また、ここは以前も来た場所だというところが何回も現れます。また、五感を刺激するようなことも増えてきました。

 今朝は、十数年前に亡くなった祖父が現れました。祖父に夢で会った覚えはこれまでなかったのですが、場所はこれまでも夢で出て来た場所だった気がします。食事の用意などはまるでしたことのなかった祖父でしたが、テーブルにたくさん料理を並べて私と(おそらく)妹を出迎えてくれました。ーーそのテーブルの上には、焼き鳥とうなぎがたくさん置かれていたのを今でも思い出せます(今は肉食を控えているのでほとんど口にしていませんが、私と祖父の好物です(特にうなぎ))。

 そういえば、少し前から、知っている人たちが次々と現れるようになっていました。そして、その人たちというのが、だんだんと自分にとってより身近な人たちになっているかもしれません。ある時は、私がそうした人たちに対して、学校の教室のような部屋で何かを力説したりもしていました。

 能力の高いチャネラーの方に、夢とはパラレルワールドの体験だということを聞いた当初は、何を言われているのかよくわかりませんでした。しかし、だんだんとリアルさを増す夢によって、〝そういうことなのかな……〟といった感覚になってきています。

2024年8月28日水曜日

そのほうが都合がいい?


 以前、YouTubeのある動画で、汚部屋であるほうが都合がいいから汚部屋でいる人がいるといった内容を語っている人がいたことを、ふっと思い出しました。詳しいことは忘れてしまったのですが、そこには親子関係において娘が汚部屋で母親がそれを苦々しく思うという関係が崩れない方が楽だからだといった背景があったかと思います。

 第三者から見れば問題のある状態が、当事者同士はそのほうが安心できるという、確か共依存的な関係が見出されていたかと思いました。

 ※きょう‐いそん【共依存】《「きょういぞん」とも》依存症の一。特定の人間関係に依存する状態。自己の存在意義を認めてもらおうとして過剰な献身をくり返すなどの行為がみられる。DV(ドメスティックバイオレンス)を受けた女性が、「自分が至らないために起こった」と考えて暴力に耐え、人間関係を解消できないなどの例がある。〔デジタル大辞泉〕

 なんでこんなことを思い出したかというと、自分はこれまでいろいろなことが〝できない〟とか〝認められない〟とかいったことに不満とともに強烈な劣等感を持っていることをこのブログでもたびたび触れてきたのですが、その心理の奥底には、実現してほしくないという思いが隠されているのではないと考えたからでした。ーー実現しない方が私にとって都合がいいこととは一体何なのか。それにメリットがあるとしたら一体どんな訳なのか。

 もしそれらがあるとしたら、自らを弱者で被害者の側に置くことなのではないかというおぞましい理由は、考えうる答えの一つとなる気がします。ーーそれというのは、私が嫌悪する、社会活動家とかいう人たちのやり方ではないのか。

 認めたくはありませんが、私たちがネガティブで過剰に反応する他者(組織や団体やイデオロギーも同様)の性質や行動というのは、自分では認めたくない自らの内に潜む都合の悪い何かであるといいます。

 だとすると、自分を弱者で被害者の側に置くことと言うのは、(おそらく前世・過去世において)自分が強者で加害者であったことを隠蔽しようという後ろ暗い気持ちがあるのではないでしょうか。最低ですが、もしそれが事実ならば、自分の考えや行いが最低であって、最低を最低と認めないと進めないということになります。

 卑怯なあり方を捨て、私は私のできることすべきことを自分のために、他者のために取り組むのだとしたら、一体どうしたらいいのか。結局どうあっても悩み続けるのものの、まずは、自分ではまるで自覚がない、むしろ正反対のものとして認識するネガティブで過剰なおぞましい何かを手放し、その代わりにこれまで経験したことない状況に自らで責任を取っていくことを、覚悟しなければなたないのだということではないでしょうか。

2024年8月26日月曜日

どうやら正解だったらしい


 以前に私は、今自分の取り組んでいることが間違いないか否かについて、ネットオークションの動向が潜在意識で連動しているととらえ、落札がある時は、今自分が取り組んでいることがうまくいっている時が多いというものです。両者の不思議な因果関係について、いつしか私自身は〝手放しがうまくいった〟というメッセージとしてとらえるようになりました。」ということについてお話しました。

自分仕様のメッセージ
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post.html

 8月に入ってすぐくらいにとんとん拍子で〝YES〟とおぼしきメッセージかのように出品している品物の落札や引き取りが相次いだのですが、その後二週間程度停滞を感じていた矢先に、また連続しての落札があり、〝少し抜けたな…〟という思いを抱きました。


 8月は、これまで仕事上で〝参加すべき〟と思っていた集まりなどに一切参加するのをやめました。すると、思ってもいない出来事が思ってもいない形で訪れ、先に決めていた様々なことが変更になるかという危険もあったのですが、おさまるところにおさまっているという感じです。

 ひと月ほど前に、ある場所に行くかどうかで悩みました。公私ともにスケジュールが詰まっていると思いました。しかしながら、〝行ってみたい〟という思いだけを頼りに、誰にも告げずに無計画で目的地に向かいました。小さなトラブルはいくつかありましたが、結局すべてがうまくいき、すべてが楽しかったと思って帰宅できたのです。

 これというのは、余計な思い込みや期待がないために起こったことであろうと、最近こう考えるようになりました。逆に言えば、私はさんざんにそうしたものに縛られて、世界と自分自身を苦しいものであるとしかとらえられていなかったのだと思いました。

 つい先ごろ、心理占星術の個別講座において、私たちの「自由意志」とは自身の宿命を生きると決意することであり、そうすることによって天宮図の全体性が発動するといった内容をあらためて確認しました。私自身が私自身でありたいと願うことで、目的地(ゴール)は自動設定され、そこに向けて何かに導かれるように進むことができるという感覚なのでしょうか。

 私には私の、あなたにはあなたの、たとえ最後は同じ場所にたどりつくのだとしても、そこに至るまでのそれぞれのルートがあると私は想像しています。それこそが〝個性〟である〝多様性〟であるという考えです。

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 ユング心理学をベースにした占星術の講座を開講しています(個別対応型の講座です)。あなた自身の「物語」を知る足がかりの講座として位置づけています。

〝ゴミ〟か否かを決めるのは……


 ここのところ自己喪失ぎみで少しずつ回復を図っていたのですが、意外なところでまたやられてしまいました。

 何年もの間、主に専門書を売るのに使っていた古書店がありました。最初に利用した際の電話での応対の印象が良く、最近もこちらの不手際に親切に対応してくださったので、信頼して何度か利用しました。

 ところが今回、本を送る前のメールでのやり取りの段階で、取引はしない旨の連絡を受けました。もちろん、私が売ろうと決めた本が先方の商売にとってメリットがなかったからだという理由であることは十分に承知できました。

 何に落ち込んでいるかと言うと、まずは、メールの文面がやたら長いわりにあまり中身(気持ち)がないということでした。実は、これまでのこの古書店以外で、取引の対象を絞った古書店や古物商へメールや電話で問い合わせをしているのですが、必要なことだけの伝達であっさりしていて、むしろ納得できたということが多くありました。

 今回話題にした古書店も、私が最初にコンタクトした時はほぼ店主ひとりで切り盛りしていたのだと思われましたが、商売がうまくいったみたいで、マスコミにも取り上げられた形跡があり、取引も専門書だけではなくなっていました。店舗の規模も大幅に拡大し、従業員が増えているのもわかりました(それ自体は大変喜ばしいことであると思っているのは、一言断らせていただきます)。

 その上で、私が集めて(読んで、あるいは、使って)きた本には価値がなかったと言われたに等しいことに、大きなショックを受けているのだと気づきました。

 この先に待っているのは、いずれ本だけではなく、持ち物の多くはすべて〝ゴミ〟と認定され、いずれはすべての〝ゴミ〟が有料での引き取りになるのではないのか……そんなことを考えたのでした。こんなところでまで、〝お前には価値がない、勘違いするな〟みたいな否定的なことを言われているみたいで、落ち込んでしまったのです(その古書店は、最近の取引先として個人ではなく有力な組織・団体が増えているようなことも匂わせていました)。

 もうこれは、本当に〝ゴミ〟として手放しなさいということなのか……。

 一方で、地方都市から首都圏に戻ってきてから、私はネットオークションなどを利用して、多くの物を手放してきました。出品する物についての必要と価値を判断するのは私ではなく、それを購入する相手側の人たちであるという体験を初めてし、それを積み重ねてきたことで、これまで常識だと思っていたことを打ち破るきっかけにもなっています(両親などは、いまだにこの感覚はわからないようです……)。

 こうしたささいな突っかかりが、自分にとって何らかのメッセージであることが、これまで何度かありました。早急に答えを出すのではなく、これまでとは違う方法なども考えて、でもできるだけ早く、もっと身軽になってすべきことを集中的に取り組んでいきたいという自分がいるのも確かなのです。

2024年8月24日土曜日

妄想する……理想を追い求めたあの時代……そして現代

           


 こちらの話題は、本ブログを始めた時から書こうと思って下書きのままにしておいたものです。書きたいし、書くべきだと思いながらも、なかなか考えがまとまらず、言葉も出てきませんでした。しかしながら、150本目の記事の節目で「下書き」のボックスにこのデータだけが残り、やっと書く時が来たのだと感じました。

 私の太陽のサビアンシンボルは、集合意識に対して個(エゴ)が突っ込んでいくという様子をビジュアル化したものです。でも、個(エゴ)は個でしかないので、破壊されておしまいです。しかし、時代が変わって、それはできるし、私のすべきことなのではないかという考えに、この数か月で傾いてきています。

 三次元の世界で肉体を持って生きている以上、私たちはその制約を受けないわけにはいかないというのが私の現段階での考えです。仏教で「菩薩」と言われる人たちも、一度はそれを脱したにもかかわらず、肉体の苦しみを負ってこの世で人々を救済するという設定です。

 基本的に人間は、個(エゴ)を脱していくことが必須です(それは、このブログで述べてきた家族をはじめとする人間関係や前世・過去世での制限や過ちに気づき、それを開放したり浄化さたりしていくことで可能と見ています)。そして、ある程度のところまで魂の成熟がなされてきた際、完全状態が100%だとすると残りの数パーセントは、個(エゴ)という容れ物におけるそうでないものの表現(現出)というのが必要になってくるのではないかと……私の周囲で魂の成熟度が高いと思われる方のサビアン占星術での鑑定を行って、なんとなくそう考えるようになってきました。

 (私自身、ヒーラーやチャネラーと言われる方たちの力も借りながら、やっとここまでたどりついたという感じですし、誤りを皆さんに教えてしまっていたらどうしようという危惧を胸に秘めながらも、これを書いていると思っていただければ幸いです。)

 ところが、そんなことを考え始めると、どうにもネガティブな思いしかなかった私の太陽のサビアンシンボルが急に輝き出すようなイメージが起こりました。巨大な高層ビル群の大動脈として決められたルートを高速で走る特急列車をよそ目に、ごみごみする低層の建物がひしめく街をのろのろいくボロ車が……。あるいは、「大きな物語」を語る数々の〝すごい人たち〟をよそ目に、そこに集まることに抵抗を示したり、違和感を感じるごくごく少ない人たちに対して、その人たち自身の「小さな物語」を語ってみせる「隠者」の姿が……。

 私の心惹かれる日本のある時代にも、私の主君だった人たちが目指していたのは、「小さな物語」を生きる人々が共存し、助け合って繫栄する世界であったのではないかと思うのです。今に残る歴史書や物語では、その「理想」はわからないようにズタズタにされてしまっているようなのですが、敵とされた者同士が実は違う場所で同様に同じことを考え、それをよく思わない人たちによって「大きな物語」の中において、誤った考えや行動を起こしたもの、うち滅ぼされるべきもの、あるいは、取りに足らないものとして扱われているのではないかと……そんなことがこれを書きながら次々と勝手に浮かんでくるのです。

「大きな物語」から脱する
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post_20.html

 今度こそ……。

 変人は変人なりに、へそ曲がりはへそ曲がりなりに、我が道を行こうと思います。

 本ブログの更新はこちらの150本目の記事を持って終了いたします。先に、いくつかの記事において、本ブログを予告なしに閉鎖する旨をお伝えしていますが、閉鎖については現在のところ未定です。
 本ブログの記事を興味・関心をもって読んでくださっていた方は、個別にご連絡をいただければと存じます(商品やサービスを売ろうなどいう気はまったくありません。「本ブログの更新」の「終了」については事情があります。ただ、「個別にご連絡」をいただければ、これからも新しい記事をお届けできると考えての上のことです)。

2024年8月23日金曜日

【人間存在に対する新たな認識を得る作品紹介】魚豊『チ。―地球の運動について―』〈裏〉

           


 前回は、今秋にアニメ化を控えている『チ。―地球の運動について―』を紹介しました。

【人間存在に対する新たな認識を得る作品紹介】魚豊『チ。―地球の運動について―』〈表〉
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post_22.html

 この作品について、「最初から(文字通り〝最初から〟かもしれません……)受け付けないという方もあると思った」と書きましたが、残虐すぎる拷問の描写から始まるからです。

 先に『望郷太郎』(<裏>テーマの方において)を紹介した際にも、信じがたいような残虐描写があることをお伝えしました。

【人間存在に対する新たな認識を得る作品紹介】魚豊『チ。―地球の運動について―』〈裏〉
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post_23.html

 『望郷太郎』では、「人肉食」に始まって「人身売買、嗜虐的な饗応(脅迫材料にもする)や人皮靴といった、目を覆いたくなるような出来事」が描かれていましたが、「拷問」もまた、人が前世・過去世に目を向けた際に誰もが避けては通れない所業であることを、前世・過去世のチャネリングでお世話になった方に教えられました。

 そして、『チ。』には拷問以外にも、人間の残虐さとその背後にある弱さや愚かさを思い知るような登場人物の行動が数多く描かれています。ーー盲信、排斥、保身、侮蔑、脅迫、その他欲望の数々と、世代間でそれらが交代しながら憎悪とともに引き継がれていく様に、身震いが止まらくなるような場面も多々あります。

 前回記した<表>では、「ある真理」の美しさに魅せられた登場人物たちの生命の輝きの面に焦点を当てましたが、良心に従ったゆえに死ななければならない登場人物に対しても、私は同様の問題意識を読み取ることができました。
 一方で、自らの罪深さに気づいて生き続ける登場人物に対する救いがたい思いにも、共感を覚えるのです。私は、前者でいられる自信はまるでないからです。〝病んで〟いる世界や時代や人々(自分も含め)に疑問を感じることすらなく大勢の人間たちと同じように振舞ったであろうし、もっと言えば、そうした中で積極的に〝異分子〟を密告したり、自ら手を下した可能性だった否定できません(実際、している)。ーーおそらく〝正義〟とか〝神〟とかいう名のもとにです。

 『望郷太郎』でも『チ。』でも、まずは前世・過去世の自分が犯したであろう過ちに気づかされる点で評価されるべき作品であるのですが、『チ。』に関しては特に、残虐な行いを与えてしまった相手に対してくり返し詫び、過ちを犯してしまった相手を許し、弱くて愚かな自分自身を受け入れることの重大さにも気づかせてくれる作品であると私は考えています。

2024年8月22日木曜日

【人間存在に対する新たな認識を得る作品紹介】魚豊『チ。―地球の運動について―』〈表〉

           


 この作品はいずれ紹介したいと思いながら、なかなか手が出せないでいました。これまで紹介してきた作品よりも内容もテーマも描写も重苦しく、エンタメとしての漫画としては、難解であるし最初から(文字通り〝最初から〟かもしれません……)受け付けないという方もあると思ったからです。また、私などが紹介文を書いたところで、作者の魚豊氏の作品に託した思いから外れた、まったく見当違いなことを述べてしまうのではないかという危惧があったからです(ちなみに、「エンタメとしての漫画」として難しいところがあるとは述べたものの、作者の魚豊氏が時々ぶっこんでくるツッコミどころ不明なギャグは、作品の重苦しさとは別のセンスが光っていました)。

 ところが、今秋にアニメ番組として放映されることをX(旧Twitter)やYouTubeのフィードに上がって来た情報で知りました。ーー驚きです。一方で、多くの人々がこの作品を受け入れるだけの〝準備〟が整ってきたのかとも感じました。

動かせ 歴史を 心を 運命を ――星を。

舞台は15世紀のヨーロッパ。異端思想がガンガン火あぶりに処せられていた時代。主人公の神童・ラファウは飛び級で入学する予定の大学において、当時一番重要とされていた神学の専攻を皆に期待されていた。合理性を最も重んじるラファウにとってもそれは当然の選択であり、合理性に従っている限り世界は“チョロい”はずだった。しかし、ある日ラファウの元に現れた謎の男が研究していたのは、異端思想ド真ン中の「ある真理」だった――

 上の引用は作品の紹介文ですが、この文章に続いて「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」とあり、「アツい人間」を描いた作品なのだと続いているのですが、私には登場人物たちが「アツい人間」とはとても思えないところがおおいにありました(へそ曲がりですみません)。

 私の印象としてはみんな〝病んで〟います。世界と時代が〝病んで〟いるとも言えます。その中で、〝病んで〟いるままになれなかった登場人物(皆、自分に嘘がつけなかった人たちではあると思います……)たちが、自分ではない誰かに、自らが魅せられた美しいものーー「ある真理」ーーを託すという物語の形式をとっている作品だと私は解釈しました。

 登場人物たちは、当時の世界と時代の中においては、取るに足らない存在にすぎません。しかしながら、彼らがつなごうとした「ある真理」を彼らがそれぞれに美しいと感じた瞬間瞬間の連なる果てに、新たな世界と時代とが開かれる予感に満ち、その静けさの中で作品は幕を下ろします。

 もしかしたら、現代もまさに『チ。』で描かれる作品世界のような状況にあるのかもしれません。2020年に連載が始まった作品(すでに完結)ですが、これまでであればアニメ化はされなかったのではないかと思うような作品(YouTubeでは、内容的にヨーロッパでは放映は無理みたいなことを述べている動画もあります……)が、4年後にアニメ化されることは、確かに現代も変わろうとしているこ証左とも言えるでしょうか。

2024年8月21日水曜日

何度も何度も現れ出る似たような人々(忘れた頃に)

           


 今、軽く自己喪失状態です。何をしたらいいのかわからず、とりあえず、〝物〟を持ち過ぎていることに気づき、何度目かの大掛かりな断捨離を行っています。ーー〝物〟以上に〝気持ち〟の整理であるような気がします。

 これまでの人生で、自分の存在自体の全否定をされたと思う経験は何度かありましたが、時間が経ってみて、全否定されてよかったという結果になっています。それというのは、先方には何らかの目的があって私を〝そちら側〟へ引き込もうとし、全否定を行っているのがわかったからです。

 しかしながら、これは自分にもおおいに非があります。なぜならば、私の側になにがしかの目的、有り体に言えば〝欲〟があって、それゆえに引き寄せてしまった〝災厄〟であって、自業自得以外の何物でもないからです。

 数年から十数年おきくらいに、そういう事態に陥っています。私の場合、やはり〝承認欲求〟ですね。それに付随して、お金だとか地位だとかそういうものもありました。ただ、忘れた頃に、そうした〝全否定〟する人たちと遭遇して、回を追うごとに問題解決の糸口が複雑化していきました。なぜならば、出会う人たちの目的が、だんだんと大規模で高邁な理想を提示しているようになっていったからです。

 彼・彼女らのまばゆさの裏で、私の抱える〝承認欲求〟とそれに付随するエゴ(我欲)の数々が見えにくいままに事態が進んで、抜け出しにくくなっていったのでした。ーーまるでゲームのようです(このあり方、まさにこれが私の前世・過去世でくり返してきた悪いパターンなのだと推測できます)。

 これで、〝承認欲求〟ステージはおしまいでしょうか。もう、〝高邁な理想〟にはこりごりです。

 しかしながら、「理想」を描くこと自体が悪いことであるとは私は思っていません。ここで、ふっと気づくのです。タロット・カードの大アルカナの「皇帝」や「ワンド(棒・杖)」はまさに「理想」を象徴していますが、必ずそこにはポジティブな面とネガティブな面とがあり、また、望ましい展開の仕方や他の要素(エレメント)」との関係性やバランスがあります。

 長い時間をかけて、しっかり学んで、考え てきたではないか……そう、自信を持って進んでいいと自分に許可してあげないといけないと思います。


 タロット・カードの講座に興味のある方は、下記リンクの「お問い合わせ」よりご連絡ください。

「お問い合わせ」
https://zarara1111.blogspot.com/p/aipictors-httpswww.html

2024年8月20日火曜日

「大きな物語」から脱する



 気を取り直して本ブログの執筆を続けることにしました。どういうわけか、閲覧数が増え始めています。読んでくれている人がいるのであれば書くかという思いと、喪失してしまった自分の進む方向性を見出すためでもあります。

 ある決意をしたところで、種明かしのように、頻繁には見ていないSNSの投稿で、私の選択はやはり〝YES〟で間違いなかったと思われる情報を発見しました。一定期間、何らかの〝試験〟を受けさせられていたような気分になります。

 断捨離も進めています。残されている時間でできることは限られていると考えるからです。断捨離は、具体的な物(私の場合は特に本や書類です)に紐づいた思考と感情を手放すのに有効です。
 便利グッズや時短グッズのような物も、まだまだけっこうありました。こうした物を購入する理由はただひとつ。ーー本当に欲しかったのは〝時間〟であるにもかかわらず、自分のための時間の多くを奪う様々な事物の方が大事だと、信じて疑わなかったからです。根本的に自分にとって不必要なあれこれをいつまでも手放せなかったために、起きていた現象なのです。

 ふと思い出したのは、このブログでも最初の方に掲載した、村上春樹氏の『1Q84』で提唱されている「大きな物語」と「小さな物語」でした。

【ツインレイを知るための創作作品①‐1】村上春樹『1Q84』
https://zarara1111.blogspot.com/2024/03/blog-post_27.html

  さすがは村上春樹と言うべきか、この作品は来るべき時代を描いていたのだと気づきます。ーー「大きな物語」を捨てて、「小さな物語」を発見する時代の到来です。

 いまだ世間では、レベル感や質的な相違はありますが、「大きな物語」に没入する人々に満ちています。実際、私はこれまでの半世紀で経験してきた違和感の多くは、「大きな物語」の強要やそれと気づかずに仕組まれた罠の数々でした。
 一方で、辛く苦しい出来事というのは、実際のところ、「大きな物語」からの脱するための警告やそこからの脱出そのものであったことに気づかされたのです。

 こんな私にわずかでもできることがあるとすれば、「大きな物語」の世界に疑問を持ち始めた人たちに、ひとりひとりが持つ「小さな物語」があると知らせ、それがどんなものであるかを〝語る〟ことではないかと思うのです。

 そのために私は、傍から見たら支離滅裂で一貫性なくいくつもの分野の知識を身に付け、情報を収集し、学んできたのかもしれません。そうした能力や役割があるのであれば、このブログを続ける意味もあるのではないかと思うのです。

 ※ただし、こちらのブログの閉鎖は時期が来たら実行するつもりです(諸事情により)。


 ユング心理学をベースにした占星術の講座を開講しています(個別対応型の講座です)。「小さな物語」を知る足がかりの講座として位置づけています。
https://resast.jp/stores/article/22545/73121

2024年8月19日月曜日

とりあえずやめない

 


 前回、このブログをやめようか悩んでいるとお話しました。

やめたい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post_18.html

今、正直目標を失ったようになっています。何もかもが、取り組むに値するものなのかどうかがわかりません(それは、目に見えない世界のあれこれに限ってというのではありません。趣味だとか、長いこと興味・関心を持っていることであるとか、集まりなどにはどれも出席しないと決めて、その通りにしたせいもありますし、日常生活だとか……すべてです)。今年の夏はあまりに暑かったせいもありますし、8月に入る前に〝した方がいいから〟とか〝役に立つかもしれないから〟で毎年参加している集まりなどにはどれも出席しないと決めて、その通りにしたせいもありますし、8月に入ってしばらくして起きた、予期しなかった出来事もありました。

 自分が無価値であることに打ちひしがれたり、一方で、そう思わせるきっかけとなった諸々に対して激しい怒りを覚えたりもしています。しかしながら、動き出せないのには理由があります。ーー恨まれるのが怖いのです。

 正直に自分の考えを述べるべきであることは、長いこと相談しているヒーラーの方から指摘を受けていることです。しかしながら、自分の考えを述べることによって勝手に恨まれてしまうこともあり、それは避けたいと考えています。新たなカルマとなってしまうのが嫌なのです。

 ブログで自分のことを書くことすら本当は少し怖いのですが、いろいろと考えをまとめるにブログを使うと都合がいいのも確かです。逡巡する過程が誰かの役に立つこともなきにしもあらずです。それでも、たとえ私のこのブログのようにほとんど読まれていないとしても、ブログはオープンなものですので、たとえるてみると、人通りの少ない通りにある家とはいえ、その玄関先に見つかるとマズイものを置いておくような感じでしょうか。

 まあ、恨みを買うようなことは書くのを控えるということにしまして、このブログを始めた当初の目的は一日一人誰かの助けになることをするというものでしたので、それは続けてみようと思います。人からすすめられ、それとともにその前提としてしなければならないことがあると言われましたが、それを私は〝したくない〟ので、今後一切しないと決心しました。それでは意味がないらしいですが、まったくないわけでもなさそうです。

 私の身の程であれば、それで精一杯、なんとか続けてはみようと思った次第です。

 ただ、こちらを閉鎖することは考えています。予告なしですので、読み続けてみたいと思ってくださった方は、個別にご連絡をいただければありがたいです(お金をとったり、何かを買わせるつもりは一切ありません)。

2024年8月18日日曜日

やめたい


 気づけば5か月、ほぼ毎日こちらのブログを更新し続けています。しかし、お金を払ってまで続ける意味をあまり見出せない状態に陥っています。最近は閲覧数が少しずつ増えているのですが、果たしてどうなのでしょうか。本当に情報を必要とする人に届いているのか、それ以上に、私の書いたものになにがしかの価値があるのか、……まるでわかりません。

 (収入につなげたいとか自己顕示欲といった意識はほぼなく、そうした理由によって、閲覧数が伸びないから継続を疑問視しているということでは決してありません。)

 昨日更新できなかったのは、先週今週とで予想しなかった出来事で大変忙しく、気づいたら0時を過ぎていたというのが真相です。書きたくないから書かなかったということではありませんでした(むしろ、書きたい話題については基本的に困っていません)。

 事情があって、もうしばらくは続けようと思っています。しかしながら、時期が来ましたらサイトを閉鎖するかもしれません。

 もし、私の情けなくておぼつかない経験や考えをもっと知りたいからそれは残念だという奇特な方がいらっしゃいましたら、個別にお問い合わせください(閉鎖は予告なしにする可能性が高いです)。

2024年8月16日金曜日

関わった人が少ない大した時代ではないと言われても……

           


 このブログでは、前世・過去世と歴史に興味・関心を持つ人たちとの関係性について何度か話をしています。

歴史好きでも踏み込みたくない時代
https://www.blogger.com/blog/post/edit/7872830779997509042/5669830568479236903?hl=ja#:~:text=https%3A//zarara1111.blogspot.com/2024/04/nhk%2D13%2Dhttpszarara1111.html


願望や妄想だと思って当然なのですが……
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_26.html

 上の記事でも記した戦国時代や幕末、あるいは聖徳太子は、関わった人間が多いから興味・関心を持つ人も他の時代に比して多いというのには納得です。ただ、戦国時代や幕末については、恨みや憎しみといった感情がその時代の特定の人物に吸着するような感覚が私にはあります。

 かくいう私も、あまりメジャーではない時代に興味があり、それは家系的なものと前世・過去世的なものとが交錯する地点にあるからだというのがわかってきました。

 そんな、関わった人が少ない大した時代ではないと思われてきたところに、近年、どういうわけか光が当てられています。そして、私の先祖や前世・過去世の人が直接に関わったであろう人々にも注目が集まっています。主に、「物語」(創作作品)として扱われているのですが、その中でかつての敵味方がデフォルメされて仲良く一緒にいる画面などを見ると、私はとても救われた気持ちになります。ーーもう、恨みも憎しみもないよね、こんな風に描いてもらえて本当によかったね、と思うのです。

 また、今の私の先祖のおおもとの一族というのはかなり古い一族です。詳しくはまだわからないところがあるのですが、日本の各地に散らばって生活せざるを得なくなって表舞台から消えていきます。そうした中で、おおもとの地に残っている一族は、周囲にはすべてを黙して内々の継承を続けているようです。

 昭和の時代の継承者が存命中に語ったことを記録した本を読んだことがあるのですが、彼らから見れば、私の先祖の一族は出過ぎた真似をしたので衰退してしまったととらえているようでした。まさに、今マスメディアにとりあげられる機会が増えて注目されている時代における、為政者との積極的な関わり合いがあったことで、確かにそういう結果になっています。

 しかしながら、私の中に眠るご先祖様たちと前世・過去世の記憶は、そう考えてはいないようなのです。なぜならば、いにしえの世で受けた仕打ちに対する恨みと憎しみで閉ざされたままで終わらず、理想の世を作り上げるためにともに歩んだ人たち(主君)と出会えたことは、決して不幸ではなかったといういくつもの思いが、私の中にあるのに気づくからです。

 「理想の世を作り上げる」ことは、信じがたいような急激な時代の変化が起こったことで、かないませんでした。

 そのことで、新たな恨みや憎しみを負ってしまったというのは、確かに失敗であり、非難されても仕方ないと思います。しかしながら、不思議な後押しもあり、一族の負の想念が浄化され、新たな役割をもって世の中に出ていく時代が訪れたのだと感じています。

2024年8月15日木曜日

みじめな思い

           


 何気なく使っている「みじめ」という言葉ですが、この「みじめ」という感情は、なかなかにネガティブなものなのではないかと思いました。そして、私の人生(おそらく前世・過去世)もそんなことのくり返しだったのではないかと最近は想像するのです。
 「みじめ」なんて言葉を使ったこともない人もいるのではないのかと思われますが、どうでしょうか。

みじ‐め 【惨】

解説・用例〔名〕(形動)
(「見じ目」の意か)

あわれで見るにしのびないこと。まともに見ていられないほど、いたいたしいこと。また、自分がひどく卑小で情なく、屈辱的に感じられること。また、そのさま。

 上記は『日本国語大辞典』の引用です。なかなか語義も語源と考えられている意味も深いです。

 「みじめ」という言葉を自分の気持ちや状態を表現するのに使った場合には、他者がこのように自分のことを見ているだろうという思いを、自分がそのように引き受けている言葉のようなのです。

 要するに、他人が自分のことを「あわれで見るにしのびない」「まともに見ていられないほど、いたいたしい」と思っていると感じられて、自分自身で自分自身のことが「ひどく卑小で情なく、屈辱的に感じられる」ということらしいのです。

 私は、他人に対して「みじめ」という言葉を使ったことがほぼなかったことに気づきました。なぜならば、「みじめ」かどうかなど、本人がそう感じているかという問題であって、第三者が判じることではないと思っているからです。同情されたくないという気概を持つ人に対しては、大変失礼な言葉でもあると考えるからです。

 よって、他の方はどうなのかはわからないのですが、私自身に関して言えば、「みじめ」とは自分で自分の気持ちを表現するために用いる言葉であるのです。そして、私の人生の大事な局面で、何度となく使ってきた言葉です。

 このブログで最近話題にしている〝できない〟という状況を突き付けられた時に「みじめ」だと強く感じます。

できない
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/httpszarara1111_2.html

できない理由
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post_12.html

「だけ」「しかない」に対する警戒心
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/blog-post_14.html

 もっと分析してみると、先ほど電子辞書で類語辞典にに掲載されていた「のけ者にされてみじめな気持ちになる」という用例が、私が「みじめ」を使う状況としてもっともしっくりきました。

 そうなのです、私がくり返し味わうネガティブな感情のうち、いまいち自覚がなかったのはこの「みじめ」という感情であり、〝お前は自分たちとは違って劣っている〟というメッセージを受け取った時(それは思い込みの可能性もあるのですが、状況的にそう理解される時)に激しくわき起こる感情でした。

 昨晩、長く相談をしているヒーラーさんのブログの記事でまだ読んでいない記事を発見して読みました。その中に、自分自身のものではない感情や思考に縛られているかもしれないという内容がありました。

 常にうまくいかないような、阻まれるような感覚で歩んできた人生(サビアン占星術でも暗示されていた正体不明の〝障害〟)の正体を見る思いがするのです。

 電子辞書で「みじめ」を引いた際に、英文の慣用表現にこのようなものがありました。

 I have led a dog’s life. (私はみじめな生活を送った。)

 「直訳すると「犬の人生を送る」となるが、決まり文句」だということです。私の前世・過去世や私の家系の持つネガティブさは、強烈な反骨心の裏に隠された負け犬の「みじめ」さなのかもしれません。ーーそんな思い込みは嫌ですよね。もう、終わりにしたいですし、できる時代が到来しているという思いも私にはあるのです。

2024年8月14日水曜日

「だけ」「しかない」への警戒心

           


 予備校等に通って受験勉強をした方はもしかしたら覚えがあるかもしれませんが、問題の選択肢の中に「〇〇だけ」とか「〇〇しかない」という表現があって内容を限定している場合は、その選択肢を除外していいという見分け方のコツがありました。

 この考え方は、受験勉強以外でも、社会や人生においておおいに応用できる気がしています。つい最近も、能力の高いチャネラーの方がグループセッションを行った際の質問の答えで、同じようなことを話していたことを思い出しました。

 その質問というのは、最近とても人柄の良い人たちと知り合いになったのだけれども、特定の宗教や考えを信仰している人たちだったので、付き合いを続けるべきか悩んでいるというものでした。それに対してチャネラーさんは、〝この宗教や考え「だけ」が正しい〟と言ってくるのでなければ、付き合いを続けて構わないと答えたのです。

 自己啓発系のセミナーとそこで知り合った多くの人たちが、特定の商品やサービスを〝〇〇するならばこれ「しかない」〟という形で勧めていました。私などはドケチでかつ人と価値観がかなり違うので、ネットワークビジネス系の誘いはほとんど受けなかったのですが(取り組んでいる人たちから見れば、やらなそうな雰囲気が最初からわかるのでしょうね……)、〝あなた「しかない」〟という誘い文句で一度、かなりの金額をつぎ込んでしまいました。ーー本当に馬鹿ですね。

 宗教やネットワークビジネスでの商品やサービスも、一途に信じてそれだけを続ければまた違うこともあるのかもしれませんが、もし自分に何らかの利があるというならば、それは最初に始めた人、一部の上位の人だけです(先のヒーラーさんが同じことをおっしゃっていたのを、これを書いていて思い出しました。仕組みが仕組みなので、末端の人たちというのは「とても人柄が良い」という結果になるのだと……)。

 少し本題からずれてきたような気がしますが、「だけ」「しかない」という言葉はまるで麻薬のようです。確かに、「〇〇だけ」「〇〇しかない」で取り組み続けることはそれはものすごいエネルギーですので、それによって突き抜ける人もあるのだろうとは考えられます。しかしながら私には、〝だったらどうして古今東西それをする人で充満していないんだ?〟という疑問が生じます。
 〝あなた「しかない」〟については、それほど優秀だったら私はすでに大成功者か覚者であってもおかしくないわけで、そんなことを平気で言う相手の見る目のなさをまず疑うべきでした(自己肯定感が低いと、簡単にひっかかります)。

 結局、振出しに戻って一からやり直しなのかとがっかりするのですが、「だけ」「しかない」の勧められ方については、これまで一貫して嫌な経験しかしてこなかったわけですし、「だけ」「しかない」という勧め方をしない方たちを信じて取り組んでいこうと思います。
 たぶん、「だけ」「しかない」のあり方でしっかりとご自身の目的を果たしたり、成功していたりする方というのは、自分に自信がある上にたゆまぬ努力をされたのだということです。その事実こそを大事にされて、どんな目的であれ他者は巻き込まない方がいいのではないかと私は考えるのです。

2024年8月13日火曜日

知らないことを知れば〝できる〟のかもしれない



 しばらく見ていなかった光る網網模様が、今朝は何度も天井に見えました(明け方に何度も目が覚めたので)。

 今日、ブログを書こうと思って、昨日まで書こうと思っていた話題で書く気力がなく(先週起きた出来事のために少しずつ疲労がたまったせいか、今夜は心身がぐったりしているのを感じます)、〝そういえば網網には正式な名称があるのだろうか〟と疑問に思い、少しの間ネットで検索を重ねました。

 どうやら、「グリッド」という名称があるようです。「グリッド(grid)」自体は辞書を引くと、まさに「格子」のことで、そこから派生して、電気工学や情報科学の用語としても用いられているようです。そして、スピリチュアル的には「グリッドワーカー」なる能力や役割を持つ人たちがいることも初めて知りました。

グリッドワーカーとは、人類のスピリチュアルな進化を促すための意識の母体となる存在です。

具体的には、直感とスピリチュアルな才能を駆使して、地球や宇宙のパワフルなエネルギーとつながり、土地にバランスと癒しをもたらすために活動します。

パワースポットが大好きであったり、神社に呼ばれるような人たちは、グリッドワーカーとしての素質を持って生まれてきていることは間違いないでしょう。

レイキや気功などのヒーリング技術に長けている人や、占星術や数秘術などの占術を使う占い師といった人たちの中にもグリッドワーカーは多いです。

私たちは地面を通じて地球のエネルギー、宇宙のエネルギーをもらって活動しています。植物が根から栄養をもらうのをイメージするとわかりやすいでしょう。

土地のバランスと健康を回復するために、土地のエネルギーとつながり、働きかけることができるのがライトワーカーなのです。

惑星グリッドのエネルギーを理解し、バランスを取り、癒す役割を担っており、ライトワーカーに分類されます。

ゲートワーカーとも呼ばれるライトワーカーで、高次元へと繋がるゲートからエネルギーを取り込む役目を担っています。

グリッドワーカーとは?何をするのか、役割やなり方などを解説 (lani.co.jp)

 いまいちよくわからないところもあるのですが、「占星術や数秘術などの占術を使う占い師といった人たちの中にもグリッドワーカーは多いです。」という部分がひっかかりました。さらに、この記事の「グリッドワーカーとしてのスキルを身につけるために必要なことは?」という部分に、こう書かれていました。

ありとあらゆる教育、経験が役に立つグリッドワーカーは、無限にスキルアップすることができます。

その理由は、この世界の本質的な部分に触れるからです。

数学、物理学、占星学、天体力学、物理学、量子力学、歴史(古代史、スピリチュアルな歴史)など、ありとあらゆる科学や学問が「グリッド」を理解するのに役に立つでしょう。

クリスタルや石をエネルギーのパイプとして使うのであれば、パワーストーンの知識をつけるのも良いでしょう。

 私にとっては書物の中だけの存在ではありますが、占星術やタロット・カードを学ぶ上で尊敬している方がまさにそんな感じですし、その方のようになりたいと願う自分が求めているのは、まさに「この世界の本質的な部分」を知ることです。
 「クリスタルや石をエネルギーのパイプとして使うのであれば」というのは、私が長く相談をしているヒーラーさんのことのようだとと思いました(この記事の他の部分では、「直感とスピリチュアルな才能を持って生まれ、エネルギーの理解に長けたヒーラーのような人は、グリッドワーカーとしての活動もすぐにできることでしょう。」とも述べられています)。

 また、「グリッド」を調べている過程で、こんなサイトと記事も見つけました。

https://metaphysicstsushin.tokyo/2017/05/12/ライトワーカーの11タイプ/

 昨日、「今の私には、霊的な能力にどのような種類があるかもよくわかってません」とこのブログでつぶやいたばかりで、こんなにも早く答えが見つけられるとは思いませんでした。

 しかしながら、これらがどんな能力でどんな役に立っているのかが、やはりいまひとつイメージできないところもあります。ただ、霊的な能力といっても、それは多種多様であり、複数それを持っている人もいるらしいことはわかりました。正直、現実社会の仕事や役割と同じだと思いました。

 長いこと相談しているヒーラーさんからは、私がヒーリングを学ぶとは思わなかったと言われました。ーーそのとおりです。自分が一番そう思っています。そして、私の能力は王道ではないところに需要があるだろうということも指摘されました(面白いたとえをされたのですが、ここでは私がそれを解釈した言葉になおしておきます)。

 とはいえ、希望が見え、勇気がわいてきたのも事実です。

2024年8月12日月曜日

できない理由


 人には理解できない物事を〝怖い〟と思う人があるのと同じように、それが〝できない〟と思うのにも、前世・過去世が大きく影響しているのではないかと思い始めています。

 〝できない〟というのは思い込みであり、すべきことを〝できない〟という理由で放棄するのは、他者から非難されるべきことなのでしょうか。そんな疑問を、六月中旬頃よりずっと抱いています。

できない
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/httpszarara1111_2.html

 自分に霊的な能力がないし、そんなものを身に付けることは〝できない〟という確信というか諦めを抱いていることについては、長く相談しているヒーラーさんから〝前世・過去世で、能力を持っていたことで嫌な思いをしているからではないか〟という指摘を受けていました。ただ、そんなことを言われたところで、自分のこととは思えないので聞き流していました。

 私にはチャネリングの能力はありませんが、物事の整合性を考えるのは人よりも得意です。自分がネガティブな反応を示すことを列挙し、ヒーラーさんの指摘した内容とつなげられるのではないかと、最近、そう考え始めたのです。

 仕事(や何らかの事業)において、組織(グループ)やその組織(グループ)のトップが持つビジョンの実現のため、私は自分の能力を使ってほしいという思いを強く持っています。しかしながら、組織(グループ)が望ましくない形で変容したり、組織(グループ)のトップが実はものすごい俗物であったり、私利私欲しかなかったりというのが判明した場合に、私は必ず叛旗を翻してきました。

 確かに、現世の私が持っている能力はまったくもって現実の社会生活をする上で有用なものばかりではあるのですが、これを霊的な能力に置き換えれば、私が前世・過去世で体験した〝嫌な思い〟の正体がおぼろげながら見えてくる気がするのです。

 前世・過去世のをいくつもチャネリングしてくださった方のセッションで最初に現れたのは、親に売られた寺で呪詛をしていたという少女でした。かなりの呪詛の使い手として育成は成功、世の中を知らなかった私は、寺の人間に言われたとおりに、多くの罪のない人を呪い殺していたというのです。

 だまされたからといって、自分のしたことが許されることではないことはわかっています(このことを知ってからしばらく恐ろしい夢を見ましたし、この方をセッションを受ける以前から、私は害虫類がたくさんいるおぞましい部屋のいる夢などを何度も見ていました)。許されるはずのない身がこうして生かされていることには感謝の念しかなく、してしまったことをただただ詫びなければならないという思いしかありません。

 一方で、セッションの最初に現れたこの前世・過去世は、かなり重要な意味を持っていたのではないかと、私は最近になってやっとそう思い至り、〝彼女〟のことをもっと知らなければ(思い出さなければ)いけないと思うようになりました。前世・過去世において、私の霊的な能力はおそらく、邪悪な方面で発揮されていたことが多いのではなかったのかと考えるのです。

 しかも、自分ではそれを人に言われたとおりに、〝正しいこと〟と信じて行っていたのではないでしょうか(呪詛少女は、女だったゆえに、他にも不条理な目に遭っていたようです)。

 最近、人柄が素敵なので視聴しているYouTubeのチャンネルの三択占いでも、スピリチュアル能力を開発するのはやめたほうがいいという結果でした。理由は、かつてその能力を他人にいいように使われ、もう懲り懲りだと思っているからだということでした。これも、私の突飛な考えを後押しするメッセージなのでしょうか。

 確かに私は若い頃、嫌な相手に対して〝呪い殺してやる〟と思うことがたびたびありましたし、嫌いな人と口論になった後に天井からその相手の頭上に水滴が流れ落ちたりだとか、ひどい目に遭わせた相手の車のボンネットが爆発したといったこともありました(この人は、夜中に窓の外に女性がいるとか言っていたこともありました……)。

 今の私には、霊的な能力にどのような種類があるかもよくわかってませんし、呪詛が霊的な能力であるのかということ、もしそうだとしても、その力をヒーリングのような人の役に立つ霊的な能力に変えることができるのかも、まったくわかりません。

 そうであれば、〝できない〟といって拒絶するという反応になって当然なのではないか……これが、私の現段階での結論です。

 呪詛少女は、自分のしたことを理解しているからこそ、〝できない〟という形で怯え、二度と過ちをくり返さないようにしているのであると、私はそう信じたいです。教育の現場にいた自分としては、罪を犯した少年・少女がその罪と向き合い、立ち直ることは容易なことではないことを身をもって知っています。ーーでも、できないわけではありません。

 また、前世・過去世では、同じプロットをいくつも経験している可能性があります。日本の中世初期の少女ではない〝私〟が、同じように無数の過ちをくり返しているはずなのです。

 〝できない〟という現象を見つめたところには、こうした真相を見出せそうです。しかしながら、その次に何をどうすべきかが、新たな課題として立ちはだかりました。

2024年8月11日日曜日

書き換えられ続ける〝レジェンド〟

           


 前回は、オリンピックでの日本人選手の躍進を見て、指導者の重要性と今は何かを始めるのに遅いということがないということについて、自らの考えを述べました。

久しぶりにTVを観て
https://zarara1111.blogspot.com/2024/08/tv.html

 一方で、判定や競技のあり方自体が日本人選手に不利だったのではなかというネットでの声もありました。これについては、私が子どもの頃からずっと言われていることではあります。

 例えば、フィギュアスケート界では現在、高い技術力と表現力で世界の頂点に立つ日本人アスリートを何人も輩出していますが、その先駆者である伊藤みどりさんの演技を現在の採点基準で得点化するとう動画を見ました。それによれば、技術だけで現在の女子選手を圧倒するくらいの点数でした。ーーしかしながら、伊藤みどりさんは世界の頂点には立ったことはなかったと思います。

 そんな伊藤みどりさんですが、すでに現役を引退して三十年くらい経っているのでしょうか。それにもかかわらず、おそらくみどりさんよりも若い世代の方が、こうして〝レジェンド〟として彼女を称賛する動画を作成してその再生回数が重ねられているという事実が、オリンピックや国際大会での〝金メダル〟以上の価値があるというとらえ方はできないでしょうか。

 個人で情報を発信できるYouTubeやSNSの仕組みでは、人々の〝感動〟や〝感情〟がストレートに発信され、受ける側のそれらをさらに呼び起すと言えるでしょう。そうした世界観の中では、みどりさんは金メダリストであるという誤解や思い込みが生まれ、それによって〝レジェンド〟はどんどん書き換えられていくのではないかと思いました。

 こうした現象が「物語」、ひいては、「マンデラエフェクト」の発生のメカニズムであるのかもしれません。

 また、個人個人の人生で言えば、オリンピックだろうが世界選手権だろうが、それはすべて現世的な〝評価〟による達成でしかないのです。前世・過去世、そして、未来世なるものまで見据えるのであれば、自分自身がしたいと思ったことに一心に打ち込み、自分自身がその時のベストを尽くして〝やりきる〟ことが第一なのかもしれません。他者本位の〝評価〟は、求め続けたところで満ち足りることなどないようにできているのです。

 いまだスケートを続けているという伊藤みどりさんを拝見したのですが、とても若々しく素敵だと感じました。

 また、判定や競技の在り方で敗退したと噂される日本人アスリートの方たちに対して、会場の観客からはもちろん、ネット上も、文字通り世界中から声援が送られたようです。ーー私たちひとりひとりが自分自身の価値観を大事にしていい時代が来たのだとしたら、誰か一人に対してでも自分の頑張りが届いたのであれば、それはすごいことなのかもしれません。

 そうでなくても、自分がこれだと思うことを〝やりきる〟こと自体が、問題を抱えた前世・過去世の自分に届き、未来までをも変えることになるのではないかと、私はそう漠然と考えるのです。

2024年8月10日土曜日

久しぶりにTVを観て


 TVをほぼ観なくなって久しいのですが、父親不在の実家でオリンピックの競技を母親が観ているのにつきあって、いくつかの競技を観ました。

 毎日、ネットのニュースサイトでメダルの数の表示が出るのでも気になっていましたが、日本人アスリートの活躍著しいことを知りました。その理由をいくつか考えたのですが、指導者の問題は大きいと思いました。

 アスリート自身が、自分たちの身体的な個性に合わせて最大限能力を発揮できる指導者を自らで見出し、指導者の成功や体験による押しつけがない中で、型にこだわらないパフォーマンスを極めていることを感じました。

 「型にこだわらないパフォーマンス」という点では、「無課金おじさん」の愛称で日本人が夢中になったトルコの射撃選手もそうですね。彼はこれまで、ガジェット類を装備しないことをとやかく言われてきたということです。それでも、自分の能力が発揮されるのはこれだという形を貫いてきたということです。

 確かに、アスリートにとどまらず、現在若い人が様々に活躍を遂げている背後に、優秀な指導者があったと感じています。

 私自身を振り返れば、あらゆる場面で〝そんなのはだめだ〟〝それはおかしい〟と言われ続け、自分を押し殺してきました。若くてエネルギーがある時期に、指導者には恵まれなかったことが残念でなりません。時代的な制約があったとはいえ、自分が人とは相当にズレていることに気づいたのも、父親の強い抑圧があったことを自覚できたのもつい最近であったために、できなかったことではあるのですが……。

 今回のパリ・オリンピックでは、若い人たちに交じって、遅咲きのアスリートの方がいらっしゃることも知りました。ーーしたいこと、すべきことをするのに、遅いということもない時代になったのではないかと思います。

 このブログでも時々触れている、高い能力のチャネラーさんが〝メンター〟のことについて情報を発信していました。自分を超える生徒を輩出している指導者は真の指導者であるというコメントを見て、はっとしました。学校の現場で長く指導者であった自分のあり方を振り返り、自分自身のこれからの道に光を示してくれる思いがしています。

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