2024年7月31日水曜日

ひとつ縁が切れて、ひとつつながる

           

 YouTubeの「後で見る」にためこんだ動画も、やっと削減目標本数まであとわずかになりました。

 その中にあった動画で紹介されていた『親の家を片づける』という本を読みました。このブログでも何度か書いていますが、父親が物をためこみ、片づけられない人であり、まさに本の中で子どもが苦労をした事例の方に相当する状況が目に見えるため、とにかくまずは自分の持ち物を減らそうと、これまで何度も手放すのを検討した本なども手放すことに決めました。

 自分だってあとどのくらい生きられるのかわからない中で、どの本を優先して読むことにするかを考え、読む必要がなかったり読める時間がないだろうと思うものは、諦めるしかないと思いました。物についても、使い倒すのが前提で、使い倒して新しい物を買わなくてもよければそのままにすれば、持ち物の数は微々たるものですが減っていきます。

 そんな折、占いの方で展開しているメルマガの購読解除者が久々にありました。他にも、宛先不明で届かなくなっている人もいました。

 確認すると、占いの副業を始めた頃の自己啓発セミナーで知り合った方だったり、初期の頃の講座にいらしたりといった方で、いずれもある時期から疎遠になっていた方たちでした。ーーああ、やっぱり、私にとって今は何らかの変わり目であり、切れるべくして縁が切れるんだなと、静かにそれを受け止めました(この方たちは、私が副業を始めたばかりの時期に、応援してくれたり、自信をつけたりしてくださった方たちだけに、感慨深いものがあります)。

 ところが、その確認を終えたすぐに、新しくメルマガを登録してくださった方がありました。春に参加したイベントで少し言葉を交わしただけでしたが、良い印象を持った方でした。

 〝こんなにすぐに、開いた場所に新しい訪れがあるんかい!〟と思いましたが、もう少し間がある形だったとしても、これまでもそうした経験はいくつもしてきたわけで、良い出来事の循環が加速していると、都合よく解釈したいと思います。

 あるいは、この数か月で終った人間関係や離れた物事などもずいぶんあったのですが、そうして空白になった部分にも、今回のメルマガ登録のような出来事があるではないかと、少し引きずっていた暗い気持ちを吹き飛ばせそうに思えるのでした。

2024年7月30日火曜日

明かされていない家系的な能力があるのでは?

           


 このブログにて以前、自分の家系的な能力について触れたことがあります。

輪廻転生の軌跡と家系的に引き継いだ能力
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_22.html

 ここで触れた能力は、言語に関するものであり、社会生活における秩序を保つために必要な能力と言えるでしょう。ーーしかしながら、私にはもっと別の、何か得体の知れない能力が自分の身の内にあるのを感じ時があります。時に、わけのわからない恐怖心がわいて、それに怯えるようなことがあるのです(もしかすると、自分に霊的な能力がまるでないことに影響しているのではないかと思う時があります)。

 私は本当に臆病者で、高い所や暗い所や刃物など様々なものに恐怖を覚えますが、〝別の世界に行ったまま元の世界に帰れない〟といった話に信じがたいほどの恐怖を覚えます。トンネルとか曲がりくねった道とかドアみたいなものが怖いことがあります。

 だから、「次元の入口」なるものが見えるようになったと言われても、朝起きてみて昨晩横になった時と同じ部屋にいるらしいことで、何よりもまずほっとします。

自信がない(自身がない)
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_24.html

 私の父方の家系は古い一族です(これは、不思議な力に導かれて私が自分自身で知った事実でした)。一族の中には、まさに一時代を築いた有名な漫画家がいます。その作品は、時代を縦横無尽に駆け巡る壮大なSFが少なくありません(私も彼の作品はとても好きです。そして、かなり前に展覧会で見た作品に描かれた作者の回想では、自分ではない多くの時代の人間(ご先祖様方?)などが現れたりするといった内容を見たことがあります)。

 また、昨日たまたま見つけたブログの記事の中に、この一族とかかわりの深い先住の一族(私の家は、両者に大きく関わっているようです)が登場する、やはり有名な漫画家の作品があることを知りました。その作品も、主人公や登場人物がいくつもの時代を行き来するモチーフを持つようです(近々読んでみようと思っています)。

 相談をさせていただいているチャネラーの方から、私が自分の前世や過去世の能力か何かを〝思い出してきた〟と言われたことに、それ以上の何かがあってほしくないと思っています。
 ーー知りたくない。でも、知りたい。この能力によって、私が望んでやまない〝本当のこと〟を知ることができたり、多くの人が救われるとかいうのであれば……という願望はあります。でも、自分を不幸にしてきた能力であるのならば、発動することはもちろん、知る必要もないと思い恐怖する自分がいます。

2024年7月29日月曜日

私もしてみたいと思った活動

           


 数日前に、グループでのボランティア活動に参加したことを記しました。

インターネットが引き寄せる縁
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_28.html

 このボランティア活動は、ある地域の子ども向けのイベントへの参加だったため、会場には他にもいろいろな個人や団体の方が出店をして参加をされていました。そこで、昼食の休憩をいただいた時に、会場を回って飲み物を買って飲んだり、様々な売り物やワークショップを見て回りました。

 ふと、オラクルカードをみてくださる方があり、気になってお話を聞くことにしました。しかも、何を思ったのか、このブログでもたびたび書いている父親との関係性について聞いていました(自分でも全然予期していないことでした)。

 その内容はここでは触れないことにしますが、まったく占い師だとかキラキラ女子っぽい匂いのしなかったその方は、法的な資格を持つ専門的なお仕事をされている方でした(納得でした……)。しかも、家族問題は中心となる取り組みのようでした。そして、最後にご自身が地域で展開されている活動の案内をいただきました。

 日時を限定してカフェを運営して、地域の社会福祉的な援助の必要な方の居場所を提供し、こうしたカードセッションや無料相談を受けているようなのです。ーーすばらしい活動だと思いました。

 実は、私も漠然となのですが、地域のハブとしてのカフェ運営に対する憧れがあります。コーヒーが好きだというだけで、しかも、不器用すぎる私に飲食提供は難しいと妹には突っ込まれていますが、それでもカフェいいなあ……と思い続けています。

 そんな折、職場を退職した方が自宅でやはり居場所づくりのためのカフェを作るので手伝いに来てほしいと声をかけられています。少し遠いのが難点ですし、無賃の可能性もあります(笑)が、漠然とした夢を形にするために経験を積めるのであれば、これこそ〝引き寄せ〟ではないでしょうか。

2024年7月28日日曜日

インターネットが引き寄せる縁

          


 昨日、不思議な縁で知り合った人たちとの集まりがありました。そういえば、一昨日のボランティアもそうです。一昨日は〝どういう人たちの集まりですか〟と聞かれて、一瞬返答に困りましたが、そのくらい現代というのは枠にとらわれない集まりが可能になっていると言えます(実際、昨日の集まりも一昨日の集まりも、インターネット(SNS)でのつながりがきっかけとなっています)。

 また、昨晩はオンラインでのそんな集まりもありました。初めて会ったとは思えない縁を、そこでも感じます。

 最近見た動画で、現実生活上で出会って結婚した男女より、出会い系サイトを利用して出会って結婚した男女の方が離婚率が低いという情報が示されていました。私の両親の世代だったら〝ありえない〟という意見が多い気がしますが、少なくとも私は、冒頭で記したような経験をしているので、その情報を信じることができます。

 ただ、一部は自己啓発系のセミナーなどで知り合った人間関係も続いていますが、基本的にはお金や何らかの利害がからむものは、最初から関係性に〝濁り〟がある、あるいは次第に生じて、うまくいかない傾向があります(嫌な思いをすることすらあります)。

 〝類は友を呼ぶ〟というあり方は、ネット上の関係でもおおいに反映されるもので、例えば、上で書いたボランティアに取り組んでいるグループだと、霊的な能力が高い方からは、魂の成熟度が平均よりもずっと高い人たちで集まっていると言われています。

 まずは、自分自身に欲だとか何らかの思惑がないかには注意しなければ、いくらリアルよりも縁があって相性がいい人が集まると期待したところで、うまくいかない気もするのです。

 私などは今や、SNSを縮小するのに腐心していますし、ネットの検索で会ってみたい(リアル・オンラインいずれも)という人もかつてはけっこういたのですが、日々たくさんの人が様々なデバイスを使えて気軽にネットデビューしている時代には、それと反比例して自分は関わる時間や密度を減らそうかと考えてしまいます。

 そうは言ってみたものの、出会う人は出会うべくして会って、それがどんな関係であったとしても、いずれもの出会いが前世・過去世的な問題がらみだと、肚をくくってしまえばいいのかなと思ったりもしています。

2024年7月27日土曜日

頭痛と眠気と気づきと


 昨日もこちらのブログを書くことができなくなりました。二日連続でひどい頭痛がして、眠らざるを得なかったのです(両日とも、かなり前から人と約束をしていた次の日に影響すると思ったので)。

 昨日、何年もかかわっているボランティアの活動で出かけて、一日中立ちっぱなしで声を出したり、マスクを外せなかったり、疲れて食事をいい加減にしたりというのも、よくなかったのかもしれません。しかし、出かけた際の電車の中や、休憩時間に出会った人とのやり取りで、今の自分が抱えている問題を解決するような気づきが得られました。すると、あることをめぐってある人と完全に袂を分かつと決心し、ふと、一言お詫びと感謝を伝えるべきではないのかと思ったのです。

 また、夢を見ました。忘れないうちに手帳に書き留めておこうと思って少し前のメモを見直し、長いこと相談をしているヒーラーの方から、自立と感謝はセットだということを聞いたことを書いた部分が目に入りました。

 ーー急にお詫びと感謝がわき起こったのは、そういうことだったのですね。その件に関して、私は自分自身でしっかりと、けりをつけたということだったのです。

 一言お詫びと感謝を伝えるかどうかは悩んでいます。今のタイミングではないのかもしれません。また、夢もかなり自分にとっては意味のありそうな夢でした。またひとつ、残されていた課題クリアできたということかなと考えています。

 毎日続けているこのブログと他にも週一回書いているブログの記事があり、昨晩の頭痛と眠らざるをえなかったのは〝痛手〟だと思いました。しかしながら、心身の、特に身体の不調というのは毎週、毎日続けていることを中断するだけの意味があるのだとあらためて思いました。

 昨日は、ボランティアで多くの人のために何かをしたわけです(その前の日も体調不良だったので、少し心身のだるさもあったのですが、参加してよかったと帰宅時には思いました。くたくたでしたけどね(笑))。そういうことをした後には、何らかの変化も起きやすいのかもしれませんね。もちろん、何かを期待して参加したわけではなかったのも大きいと思います。

2024年7月25日木曜日

しなくてもいいことに時間を費やしていると十年かかって気づいた

          


 私はかつて地方都市で働いていた時、毎日朝早くから時には真夜中過ぎまで働き、職場の人間関係や組織の杜撰さにはさらに苦しめられ、日々疲弊していきました。

 その際、一度首都圏に戻った時だったかに、気を診ることができる方にお会いしたのではなかったかと思うのですが(当時のことは、もうはっきり覚えていません……)、〝しなくてもいいことをたくさんしている〟と指摘されました。ーーしかしながら、しなくていいことが何かが、自分ではまったく見当がつきませんでした。

 仕事も生活もまったく変わってしまった今ならば、わかる気がします。何もかもがしなくてもいいことだったのではないかと……。そう、仕事を辞めて首都圏に戻るのでもまったく問題はなかったのですよね。ただ、そうではないにしても、何もかもを自分でしないといけないと思い込み、無駄なことばかりであったと今さらながら気づくのです。理解するまで十年かかったのが情けない限りです。

 そんなことを思い出してみると、今なお、しなくてもいいことをたくさんしていることに気づくのです。語弊を恐れずに言うと、例えば、お付き合いでイベントやマルシェなどに参加することです(リアルでもオンラインでも……)。興味があるゆえに行きたいというのであれば行く、お付き合いだからという理由で億劫さを感じるのであれば行かないに限ります。そして、当初は参加したいと思って続けていたそれらも、自らのライフスタイルや興味、メンバーとの関係性が変わったり、自分の中で違和感を覚えたらやめればいいだけなのです。

 ところが、これまでの私にはそういう線引きができませんでした。ゆえに、いつも自分のことが後回しになるのですね。この裏側には、自分の気の弱さがあると思います。いい人に見られたいとか、なんとなく断れないとか、先の記事で書いた〝自身がない〟状態です。断ると不機嫌になる父親の顔色を常に伺ってきた影響(実のところ、母親にもそういう傾向は若干ありました)なのだなと、こちらについては十年どころか、何十年も経って気づきました。

自信がない(自身がない)
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_24.html

 この六月・七月は他人に振り回されてしまっていたことを感じました。まあ、それというのは、結局のところ自分がそうしていたのですが……。八月は、強い意志を持って、他人を基準にするのではない生活をしようと考えています。父親との関係性の再構築が私の人生の最後の課題の一つのようですが、こうした地道な取り組みで実績をつくることが大事だと思うのです。

最後に向き合うべきはやはり
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_8.html

2024年7月24日水曜日

自信がない(自身がない)

          


 先に少し嫌なことがあってから少し落ち着いたのですが、また似たような出来事が起きました。少しずつ、言いたいことは言うようにしていますが、大体が話がかみあわないので言い争いになるのを避けるために、一言だけ最後は伝えて終えるようにしています。

 私は結局、肝心なとことで自分に自信がありません。そして、でたらめな人というのは自信に満ち溢れていて、私はすごく辛くなります。自分もでたらめなんだと開き直ればいいのかもしれないのですが、そんなのは恥ずかしくてとてもできません。しかし、これこそが長い長い輪廻転生における、自分の課題なのでしょう。
 「でたらめ」の基準はあいまいで、だいたいもって大多数が正しいということ以外の考え、あるいは、自信を持ってそれが正しいと言える人以外の考えの方が、一般的には「でたらめ」に認定されます。ーー落としどころというか、正解がまるでわかりません。

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 「でたらめ」を言っているのではないかと思った人に、私は自分の意志がないから〝できない〟のだというのを指摘されて、その通りだと思いました。それは「でたらめ」ではない気がします。自信がない=自身がないというのは納得です。

 実は、毎日日付が変わる前に必ず記事を一つ書いているこのブログを、上記の「***」の印の途中まで書いて、そのまま眠ってしまっていました。昨日はいつもより仕事が遅くなり、帰宅したから占いの講座があり、その後、週末のボランティアの打ち合わせをオンラインですると聞いていたのが延期になったというメッセージを確認したら、そのまま意識がなくなっていました。ーーよほど疲れていたみたいです。

 明け方、夢を見ました。目的地に行くのにそんな場所はないはずなのにという急峻な坂道が出現する夢を見ました。しかも、私は自転車でした。もう記憶があいまいで、その道を行ったのか戻ったのかもわかりません。でも、ありえない急峻さだったのはよく覚えています。なぜか、その坂の頂点は確認しているのです。ーー目が覚めると、信頼するヒーラーさんとチャネラーさんが教えてくれた、次元の入口の印が見えました(明け方、夢から目覚めた時にかなりの高頻度で見えるようになりました)。

 別世界(パラレルワールド)の中でも、私には無理だと思っているのかもしれません。ーー何に対してなのか、まったくわかりません。ただただ、自信のある人(自身のある人)に圧倒され、逃げ出したくなる自分に気づくのです。一体、何を恐れているのか、どうしても思い出せません。

2024年7月22日月曜日

【小説】川辺の公園の男たち

           


 まさか、自分が何もかも失って、昼間から川べりの公園で過ごすことになるとは思ってもみなかった。

 長年勤めた会社からは解雇され、ある日家に帰ったら、妻も子どもも姿を消していた。――近々、結婚して以来過ごしてきたこの町を去ることに決め、休日に何度か家族で訪れたここに足を運んだ。
 平日の昼に町を出歩いたことなどなかったため、これまで見てきた景色とはまるで違う印象を受けた。

 よく晴れたすがすがしい陽気だった。

 鉄橋の下に並んでいるブルーシートの一角から、一人の男が出てきた。手には鍋と玉杓子のようなものを持っていた。すると、川の流れの方を向いて玉杓子で鍋を叩き始めた。

 「今日は天気だ、ありがとう!」

 鍋の音をさせながら、一定のリズムで大きな声を張り上げている。

 「川が流れて、ありがとう!」
 「向こうのビルが光って、ありがとう!」

 すると、鉄橋の下のブルーシートから、一人、また一人と、思い思いの物を手にしながら男の周りに集まってきて、それぞれが順番に大きな声を張り上げた。

 「富士山見えて、ありがとう!」
 「桜が咲いて、ありがとう!」
 「ビールが飲めた、ありがとう!」

 輪になって屈託なく笑い合いながら、ありがとうを連呼する。

 最初はしかめっ面で近くの桜を見ていた若い母親らしき集団も、連れている小さな子どもたちがリズムに合わせて体を動かすので、その場を離れず見守っていた。

 次の日、町を出るために乗った電車の中から、昨日歩いた川辺の公園が小さくなるのを見ていた。

――生きてるだけで丸儲け、ありがとう! ありがとう!

2024年7月21日日曜日

衰えた〝直観〟を回復させるために……

           


 今日は、ずっと悩んでいたことを実行に移しました。しかも、あまり考えずにとりあえず行動してみるという感じです。明確に記してしまえば、そんなことは大したことではないと言われる方も多いと思います。しかし、石橋を叩いて叩いて……渡る前に壊してしまうのではないかというくらい慎重で臆病な私にとっては、これまでにない行動ではありました。

 案の定、朝から想定外の事態発生でした。引き返すかどうか悩みましたが、進むことにしました。すると、その後は何とかなりました。しかしながら、しょっぱなの想定外があったため、帰路では往路のような出たとこ勝負はやめておこうと手立てを施したところ、もしかしたら自分がそうなっていたかもしれないという人に遭遇しました。

 気の向くまま少しずつ進んでいき、選択しなければならないことに関しては、素直な気持ちで〝YES〟の方を選びました。

 長いこと相談を受けてくださっているヒーラーの方には、こういうことができるようにした方がいいし、取り組んでいるうちにだんだんできるようになるとは言われていましたが、まさに今日は〝到達度確認試験〟だった感じがしました。ーー何の到達度なのかって声が聞こえてきそうですが、ずばり〝直観〟です(今、思いつきました)。

 私は〝直観〟に劣ります。ユングの四区分では、人間心理学的なタイプを思考・感情・感覚・直観の四つに分けます。著しい偏りはないとはいうものの、私は〝直観〟が苦手です。このブログで最近よく話題に出す父親は、かなりの〝直観〟タイプなため、私にとっては理解できない基準で叱られたり、禁じられたりしてきました。そうしたことが積み重なり、どうしたら正解なのかがわからずに、だんだんと身動きが取れなくなっていきました。そして、私の〝直観〟機能は衰えたとも言えます(女性にとっては大事な機能なのですが……)。

 こんなことも、私にとっての最後の課題である父親との関係性、許すための過程として必要なことなのかもしれません。まだまだ先は見えませんが、今日みたいな楽しいことが増えるのであれば、それもいいよねと思える自分がいます。


 ユング心理学をベースにした占星術の講座を開講しています(個別対応型の講座です)。
https://resast.jp/stores/article/22545/73121

2024年7月19日金曜日

基礎的な教育活動の一環として?


 ここ最近は続けて『ファクトフルネス』の話題を取り上げていました。

欲しくないものをいらないと望む
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_4.html

世界は一人一人の力で〝よくなっている〟
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_14.htm

「過ち」に向き合う
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/httpszarara1111.html


私はその人たちの分も祈りたい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_12.html

 図書館に返却するその日に目に入ったのは、「脚注」部分の「教育を受けた母親と、子供の生存率の関係」という見出しでした。教育を受けている母親の子供の生存率が上がるという事実です。ーーこれは、あることを知らないがために結果的にそうなっている(望まない事態の原因となっている)ということに対して、教育を施すことがいかに重要かということだと思います。

 私がこうして興味・関心を抱いている、真の自己実現や人間関係の問題は、前世・過去世が引き起こしているものだという事実は、ほとんどの人が知らないことではないかと思います。もちろん、単に知らせたところで反発を受けたり、拒絶反応を示されてそれきりになってしまう場合の方が、現状では多いのではないかと思われます。

 教育や学びは、レベルや段階があります。その見極めと見極められても習熟度別展開に制約があるというのは、長年教育現場にいた自分が常に苦労をしてきたことです。そして、よく業界ではよく言われることではあるのですが、初学者や基礎が不十分の成績下位者を伸ばすのが得意な教員と、逆に、応用や発展のところを助けてさらに上を目指す者を伸ばすのが得意な教員とがいます。両方できるという教員はいないわけではないけれども、分業した方が効率は絶対的にいいのです。生徒にも無理をさせません。

 そして、私は前者でした。よって、この分野でも「初学者」を伸ばすことの方がうまくいくと思っています。要するに、何も知らないところから最初の一歩を導き、その後につなげるような役目です。きっと、長い自分の魂の歴史の中でも、そうした取り組みが多かった気がするのです。その中から、ものすごく成長する〝生徒〟もあったのだと思います。私にとっての教育の仕事の面白さは、確かにそこにありました。

 子どもたちを教えていた時とは異なり、同世代以上の人とのかかわりが多くなっていますが、人生百年時代において、失われた三十年だかを生きた彼・彼女らを、これまでの常識をぶっ壊すような学びへと導くことは、私の能力を最大限生かすことなのかもしれません。ーー流れに任せて、できることを続けたいと思います。

2024年7月18日木曜日

私はその人たちの分も祈りたい

           


 ここ何回か本ブログで取り上げた『ファクトフルネス』ですが、そろそろ図書館に返却しないとまずいので(終活を見据えた断捨離をしているため、基本的に本は図書館で借りています)、今日でいったんこちらの話題は終了にしたいと思います。

世界は一人一人の力で〝よくなっている〟
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_14.htm

「過ち」に向き合う
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/httpszarara1111.html


 『ファクトフルネス』の著者であるハンス・ロスリングは、「深刻だからといって、根拠の薄い最悪のシナリオと週末の予言などを振りかざしてはいけない」と述べています。「活動家」の中には、「大げさな話やでっちあげで恐れや焦りを引き出しても許されるはずだと返される」が、「恐れを煽るのはいやなのだ」と言い切っています。私のこれまでの人生において、「恐れを煽る」ことをした集団や人間に対しては、失望を覚えてそこから去っています。私の課題でもあるのでしょうが、一度や二度ではなく、何度も経験しています。そして、深い悲しみに陥ります。

 もちろん、『ファクトフルネス』に書かれていることがすべて正しいなんて言いませんし、それ以外は間違っているとも思っていません。ただ、「恐れを煽る」方法をとる人の顔や言葉というのが、普通に怖いし嫌だと思ってしまう自分がいます。いろいろな人や考えや方法があって、さらには、変化だってあって、いいはずだと信じているからです。

 「世間を盛り上げたいなら、自分の頭を冷やして賢く判断し、理にかなった行動を取ってほしい」とし、「必要なのは総合的な分析と、考え抜いた決断と、段階的な行動と、慎重な評価なのだ」というハンスの言葉には、自身の経験に基づく力強さがあります。

 また、ハンスはテクノロジーの普及と開発も重要視しています。自分の祖母と母が洗濯機を「奇跡」と思い、母親と自分に本を読む時間を与えてくれたという、四歳の時の思い出を語っています。世界中の人がこの「奇跡」を当たり前に享受できる世を目指すことは現実的です。時間はかかったとしても、それでも世代を超えて実現は可能であると、そうした希望に満ちた事実がデータによっていくつも『ファクトフルネス』には示されていました。

 何年か後に、ハンスではない別の誰かによって、この本の内容は〝書き換えられ〟るのでしょう。でも、実際に書き換えたのは、一生懸命に日々の生活を送る「名もなきヒーロー」たちです。
 私にできることなど大したことではありませんが、それでも、自分の置かれた場所でできることに取り組みます。そして、世界中の「名もなきヒーロー」たちの活躍と安寧を願い、一日でも早く世界のすべての人々がテクノロジーの恩恵を受け、平和を享受できるために祈りたいと思うのです。

2024年7月17日水曜日

嫌な出来事を忘れるには……

           


 今日の記事の題名のようなサムネイルの動画が、たまたまYouTubeでフィードに現れました。普段はまったく視聴している人でもテーマでもありませんでした。しかしながら、気になって画像にポインターを当てて音声なしで視聴してみました。

 何度も思い出してしまう嫌な出来事を忘れるには、その時に出せなかった感情を出し切ることということでした。ただ、大きな出来事ほど一度では無理だということでした。

 ーー身に覚えがあります。前世・過去世がらみの人間関係で起きた出来事については、二十年以上かかって、やっと記憶が薄れたものもありました。この怯えや恐れが一生続くと思われた日々は、本当に辛くて苦しかったです。

 ただ、前世・過去世がらみなのかも全く不明で、それ以上の年月を要しているものがあります。現在進行形です。恥ずかしさや言葉にならないがゆえに、まだここ書く勇気はないのですが、嫉妬心のような目を背けたいような衝動や怒りのようなものがひとつ、自己肯定感が全く得られない果てしない落ち込みのようなものがひとつです。

 これまでのパターンからすると、拭い去れない感情は前世・過去世がらみであると睨んでいます。こうなると、その感情が現れ出る出来事を一つ一つ思い起こして、感情を吐き出していくしかなさそうです。

 もちろん、動画でも誰もいない場所で一人でするようにと言っていました。当然ですね。私の場合、過去の出来事だけでなく、街で見かける知らない人の何気ないシチュエーションなどにも激しく感情が揺さぶられることもあるため、理性的に対処しなければなりません。でも、最近歳をとってきたせいか、わけもわからず感情が噴出しそうになることもあるので、対応は急がないといけないのかもしれません。

 まだ現れ出ていない、その感情に該当ずる前世・過去世の自分と、見えない対話を続けていくしかなさそうです。

 6月後半からこの7月はいろいろなことがありすぎて、でも、自分の意志で自力で取り組むと決めたので(実際、8月は最大限に自分のためだけに時間とお金と気持ちを使おうと、この7月にあれこれと〝雑事〟を済ませてもいます)、後には引けません。きっと、そんな切実な思いとそれに伴う行動も、これらの感情と決別するために必要ではないかと考えるのです。

2024年7月16日火曜日

あの人もこの人も、もう時間がないと言う……

           


 いつの頃からか、「2025年7月」という日付をいろいろな場所で耳にするようになりました。

 私が継続して話を聞いているヒーラーやチャネラーさん方も、一人は確実にこの日付をおっしゃいましたし、残る方も〝もう時間がない〟という言い方をされます。だからといって正直、何をすればいいかまるでわからない自分がいます。

 最近、〝これなのかな……〟という2025年7月のメッセージのようなものをYouTube動画などから受け取るのですが、正直、自分でどうにかできる類ではないだろうと思います。なにがしかの災害であろうことは、上で記したヒーラー・チャネラーの方も漠然とした形でおっしゃるのですが、どうしたらいいのかに関しては、YouTube動画の情報も含めて、一様のものではありません(それが遠因のある出来事によって、落ち着いてきたとはいうものの、ここ最近のメンタル不安が起きているとも言えます)。

 ただ、その期日までもう一年を切っています。

 自分が今わかっている限りで前世・過去世を振り返り見た時に、非業の死は幾度となく迎えているのです。でも、そうでない死もあったはずですが、よくわかりません。自分の分を知って、その中で精いっぱい頑張るしかないのではないかと思うのです。現実世界の社会的な面において、私にできることなどたかが知れているのですから……。

 このブログも、他人に読まれるために書いているのではないかもしれません。もしかしたら、無数に存在する別次元の〝自分〟に向けての説得や決意表明なのかと思う時があります。もし私になにがしかの霊的な能力があったとしても、やはりそれで精いっぱいではないかと考えます。

 では、そうでないことでしなければならないことは……と言えば、ほとん思いつかないことに気づくのです。

2024年7月15日月曜日

これでもかのメッセージ

           


 自己肯定感の乏しい自分は、何かあるとすぐに、自分はダメだという気持ちになって落ち込んでしまいます(これでもだいぶよくなって、常にだめだと思い続けることはなくなっているのですが……)。なんだか体調がすぐれないせいもあるのかもしれませんが、逆に、気持ちが落ち込んでいるからこそ、体調に影響があるとも言えるかもしれません。順調に落ちていた体重が増え始めて、これも落ち込む原因になっています。食欲がなかった時に、冷たい甘い飲み物ばかり飲んでしまったからかもしれません。

 さて、そんな時に、またしてもメッセージが届いたようです。「自己愛」という語の入ったタイトルに引かれてすぐにそのメルマガを開封しました。こちらのブログの「本サイトについて(お問い合わせ)」ページらかつないでいるシステムを開発している方のものです。


 本当に自己愛に溢れてる優しい人は

・ 自分のできることしかできない。

・ もしかしたら自分が間違えてるかもしれない

・ 自分が誰かの役に立たせてもらえてることへの感謝

・ うまくいったときは誰かが裏で動いてくれてるからという感謝の気持ち

・ 今好きなことができてるのはたくさんの人の応援がある理解

 こういう心があれば幸せに成功できるのではないかと思うのです。

 彼がこの「本当の自己愛」を示す前に、「自己愛強めの人」を出して比較しています(あまり引用すると執筆者に申し訳なく思うため、割愛させていただきます(なんだか〝ズバリ〟すぎて怖いというのもありました……)。メルマガに記された内容をすべてお知りになりたい方は、本記事の最後にこの方のメルマガの案内をしますので、そちらからご登録ください)。

 ーーああ、またこれだったんだと思いました。

何度も何度も現れ出る似たような人たち①
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post.html

私のパターン
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/blog-post_27.html

 このタイプの人間で、最も身近で長い付き合いのある自分の父親との問題を解決しないといけないのだと、つくづく思い知りました。しかし、チャネリングの能力の高い方に父親のことを話したところ、かなりインパクトのある過去世を教えていただき、途方に暮れました(順番に、話ができる時がきたら、こちらでもお話したいと思います)。

 上記の、ある方のメルマガからの引用にあるような態度というのは、私自身の〝自己肯定感の低さ〟や〝自信のなさ〟によるものだとずっと思っていました。「自己愛強めの人」というのは、そうした態度を〝謙虚さ〟や〝慎重さ〟や〝教養〟であるとらえることは決してなく、〝臆病さ〟〝自己決定力の弱さ〟〝無知〟と断じて私を責めて、追い詰めてきたからです。
 これからの私は、私自身は〝美徳〟であると考える態度とは、「本当の自己愛」に由来するものであると自信を持って言えて、行動できるようになりたいと思います。諦めずに、ひるまずに、歩を進めていきたいと願うばかりです。

 思えば、こちらのメルマガを通じてネットで知り合った方は、今では本当に不思議な縁でつながった〝親友〟のような存在です。自分の感情がマイナスに振れそうな時に、彼女がそばにいたら何て言ってどう振舞うかなと考えることで、救われたことが何度もありました。

 今回も、不思議で必要なメッセージが、これでもかと降りて来たようです。

 ※引用したメルマガに興味のある方はこちらをご覧ください。
そうま じゅんぺい (そうま じゅんぺい)リザーブストック開発者 相馬純平の リザストニュースレター – リザスト (reservestock.jp)

2024年7月14日日曜日

世界は一人一人の力で〝よくなっている〟

 


 今回もまた『ファクトフルネス』より引用したいと思います。

 ※前回の『ファクトフルネス』から取り出したテーマはこちらになります。

「過ち」に向き合う
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/httpszarara1111.html

 朝、顔を洗うときに蛇口から温かいお湯が流れてくると、奇跡のように感じることがある。奇跡を起こしてくれた人たちに、わたしは心の中で感謝する。配管工のみなさん、ありがとう。そんな感謝スイッチが入ったときには、何を見ても感動して、誰かれかまわず感謝したくなる。公務員、看護師、教師、弁護士、警官、消防士、電気工事の人、会計士、受付係。社会の土台になるさまざまなサービスの網をつくってくれているのは、こうした名もなき人たちだ。物事がうまく行っているときに讃えるべきは、この人たちなのだ。

 著者であるハンス・ロスリングは、本気でこう思っているのだろうと私には感じられました(この章のタイトルは「名もなきヒーローたち」です)。

 『ファクトフルネス』では、所得により世界を4つのレベルに区分をしていますが、ここ数十年で世界は大きく変化し、すべての人々がレベル1から2、2から3、3から4を目指してどんどん〝よくなって〟いるというのです。ーーどんなフィクションよりも、私はその事実に感動しました。

 そして、私たちがそれぞれに自分の仕事に誇りを持ち、人々がお互いにそれを感謝し合えたら、どれだけ世界は住みよくなるだろうと想像しました。持てる人は持てない人に、余力のある人は余力のない人に、何事もない人は何事かがあった人に対して、補い合い、助け合えたらどれだけいいだろうと思うのです。

 〝そんなの理想だ〟という方もあるかもしれませんが、これまで人類を苦しめた食や老・病・死の面で格段に〝よくなって〟いるのです。もちろん〝よくない〟ことも生じています。しかしながら、二度と同じ「過ち」をくり返さないようにという思いを抱き、理想を捨ててはいないと私は考えます。

 (ただ、昨今言われている〝二極化〟というのは、このあたりを理解できるか、信じられるかということなのかな……と思うこともあります。)

2024年7月13日土曜日

進路の話


 私は就職氷河期の最初期世代で、団塊ジュニアと言われた世代であるため、大学受験人口(センター試験受験者数)が最大という経験もしました。ただでさえ、押しつけの勉強が嫌いで苦手だったので、受験では軽く身心を病みました。

 友人たちが最難関とされる学校に次々受かったのに自分はだめだったことが、本当に辛かったです。納得するまでに相当に長い年月を要しました。しかし、30歳前後で友人と私の人生や生活は、偏差値の序列のような形からはどんどん違うものとなり、半世紀を生きてさらにまったく違うものとなっているのを感じます。ーーいや、この歳になってから自分を振り返ってみると、周囲とはまったく違う個性の自分が、そこから逸脱しないようにと涙ぐましい努力をしていたことに気づかされるのです。時代や父親が許さなかったからだと、他人のせいにするつもりはないのですが、十代後半の大事な時期を無駄に過ごしてしまったのではないかと悔やまれることは多々あります。

 当時、自分を真剣に見つめることもしませんでした。その方法がわからなかったというのもありますが、本来の興味は文学よりも思想などにあり(友人は、成績の良い科目から学問分野を探ったりしていたようですし、「倫理」の成績がよかった私はもう少し真剣にその事実をとらえてみるべきだったのです……)、担任の先生がすすめてくれた法学部が正解だったのかもしれないと思います。法哲学だとか法制史といった学問分野があることを知ったのは、つい最近のことです。そんなわけで、後悔先に立たず、人生はすべて〝自己責任〟です。

 話は変わりますが、最近、素敵なイラストで展開する占いのYouTubeチャンネルを見つけました。この方の動画は、イラストとお話で心が穏やかになります。ご本人らしい写真も時々拝見せられるのですが、なんてきれいな人なんだろうと思いました……(光っているみたいなのです)。

 お子さんの教育等にも関心をお持ちの様子で、下記で引用した受験に関する動画には考えさせられました。

 本当に簡単に動画の内容を要約すると、その人が人生でするべきことから外れないように、志望校には受からない場合があるのだということでした。

 ーー確かに、そうなのかもしれないと思いました。就職を見据えればあの大学この大学というのがあるのでしょうが、友人たちと同じような進路であったとしたら、今の私は受験の頃よりもさらに病んでいたかもしれません。なんといっても、大学で専門的な学びをしていなければ、日本の特定の時代の文献を原文で読むことなどできません。その点で、私が通った大学は最高の環境であったと考えます(今も、研究のために図書館を利用しています。しかも、家から大学までそれほど遠くありません)。

 また、法哲学や法制史を学ぶといっても、近現代が研究対象でなかった場合は、まずはやはり当時の原文を読むためのトレーニングの方が重要です。だから、言語を最初に学ぶことになったのだと考えられます。しかしながら、本当の興味は言語ではなかったので、ここでひと悶着あったのですが……。

感謝して終わりたい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_22.html

 面倒くさい人生だなと思いますが、取り組むべきことが人と大きく違うのであれば、仕方のないことです。そして、失敗や回り道だと思われたことが実はそうではなかったということにも気づかされるのです。

2024年7月12日金曜日

「過ち」に向き合う

           


 巻末の「脚注」部分を除いて、『ファクトフルネス』を読み終えることができました。著作権部分を確認すると2018年に出版された本のようなので、それから六年を経てなお、世界中の多くの人が手に取って読んでいる本だというのに納得しました。

欲しくないものをいらないと望む
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_4.html

 分厚い本でしたが、読み始めたらあっという間でした。ちなみに、私の専攻はもともと言語で、そこから文学や思想に移ったのですが、小さい頃から社会問題にも興味がありました。文学作品よりも、ノンフィクション分野を扱う新書類の方があっという間に読めてしまうことも少なくありませんでした。このあたりも、前世で法や裁判、記録(歴史書の作成)に携わっていたことが関係しているのかもしれません。

最終章のテーマは「愛」らしい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/07/blog-post_1.html

 さて、あまりにおもしろい本だったので、しばらくは『ファクトフルネス』の話題をこちらでも書いていくと思うのですが、「訳者あとがき」部分の問いかけが『ファクトフルネス』の成立の背後に存在していることと関わっていると感じ、強く印象に残っています。

 「自分自身を批判的に見るべきだ」という主張を押し付けすぎるのはいけません。本能に支配されて事実を無視してしまう人をおとしめても、世の中はよくならないからです。必要なのは、誰もが「自分は本能に支配されていた」と過ちを認められる空気をつくることです。そういう空気をつくるにためには、本能に支配されていた人や、本能を支配しようとする人を叩くことよりも、許すことの方が大事です。
 『ファクトフルネス』がつくろうとしていたのは、まさにそんな空気です。ハンス自身、本能に支配されて何度も間違いを犯してきたし、人の命に関わる間違いもありました。この本の第10章では、モザンピークの道路が封鎖されて起こった悲しい出来事を紹介していますが、それは彼が35年間誰にも話せないほどの過ちでした。でも多くの読者は、彼の過ちを許すことができたのではないでしょうか。

「訳者あとがき」より上杉周作氏のパート

 「ハンス」とは、『ファクトフルネス』の著者の一人であるハンス・ロスリング(1948年スウェーデン生まれの医師、グローバルヘルスの教授、教育者。『ファクトフルネス』の出版を見ずに逝去。その意志は、ともに活動を続けてきた息子のオーラとその妻であるアンナ夫妻と、ギャップマインダー財団が引き継いでいる)のことです。

 ハンス・ロスリングは、かつて自分が失敗したことから何を学び、どのようにその後につなげていったのかを、包み隠さず本の中で語っています。上記の引用中の「モザンピークの道路が封鎖されて起こった悲しい出来事」が「彼が35年間誰にも話せないほどの過ち」だったことを告白する箇所では、私も大変な衝撃を覚えました。ただ、私たちはその後の彼の功績の大きさをもって「彼の過ちを許すことができた」のでは決してないと考えるのです。ーー「過ち」にひたすらに向き合ったハンスの「勇気」に対して、私たちは自ずから「許す」という行為に導かれたのではないでしょうか。

 「過ち」を犯した一人の人間が、そのことを正当化するのでもなく、ただ祈り許しを請うのでもなく、自らの職能と経験をもって出した一つの解答であり、孫世代の善き未来を願って私たちに残したのがこの『ファクトフルネス』という一冊の本であったと私は考えます。

 私たちはハンスと同じことはできませんが、同じようにすることはできます。「過ち」も犯します。私たち一人一人の職能と経験とをもって、それに向き合うことによる〝創造〟が、自分とその周囲の人たちの生活を変え、世界を変えると信じます。

2024年7月11日木曜日

〝あれ、いつの間にか抵抗なくなってる?〟

           


 今は「反ツインレイ市場」「脱ツインレイ概念」の立場をとっている私ですが、もともとはツインレイらしき人物との関係をなんとかしたくて、現在に至るというのが事実です。最近、ツインレイについては〝さようなら〟をしたのですが、その直後に動きがあり、なんなんだこの世界はと思っています。ただ、ツインレイの件に関しては現在のところ軽々に話すべきではないであろうという判断から、納得のいく答えが出るまではこちらのブログでは書かないと思います。

さようなら「ツインレイ」
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/httpszarara1111_26.html

 今回お話しようと思っているのは、〝いつの間にか意識が変化していた〟ということです。

 ツインレイの問題に直面した当初、今は姿を消してネット上からもまったく消えてしまった、ブログやYouTube等を展開していた方がいるのですが、その方の動画で取り上げられていた〝ツインレイカップル〟の実話がありました。

 その二人は信じられないくらい年齢が離れていた(女性の方がかなり年上で男性はかなり若い)のにも驚きだったのですが、女性には子どもが複数いて、籍が入ったままの現配偶者の連れ子でした。そして、女性は〝ツインレイ〟だというその歳の離れた男性と連れ子たちとともに、縁もゆかりもない土地で生活し、子どもたちも学校には行かせていないというものでした。この二人だけでなく、籍が入ったままの配偶者もそれを認めているとかいうので、私は頭がくらくらして、最後には怒りがこみ上げてきました。

 当初は、この話が強烈すぎて、〝ツインレイ〟のハードルは高すぎるというか、非常識すぎて自分には絶対に無理だと思いました。ーーところが、この動画を見てからもう五年は経過しているのでしょうか、今は彼らに対して何とも思っていません。また、それが〝ツインレイ〟の典型だとも思っていませんし、そういうケースもあるんだなくらいにとらえている自分がいます。ーーパートナーシップも、親子関係も、定められた枠などないのだという考えを持つようになったからです(さらには、学校に行かなくいていいと考えるようになってもいます)。

 ひとつだけ断っておくと、動画の中で、女性が連れていた子どもたちが、例の若い男性のことを初対面で〝パパ〟だとか〝お父さん〟だとか呼んでいたというエピソードがあったことが、動画の中で展開された「非常識」すぎる人間関係についての理解を放棄しないという、頼みの綱とはなっていました。

 ただ、いつどのように「怒り」がおさまったのかは、まるで思い出せないです。ある時に何かをきっかけに、〝そういえば……〟という感じで思い出し、自分の感情がかつてのように振れていないことにに気づいたという感じです。

 こうして、だんだん「非常識」になっていくことが覚醒をするために必要であると、高い能力を持つチャネラーの方からは言われたことがあります。だから、このことがあって以来、自分にとって抵抗のあることについては慎重に、時間をかけてその正体を探ろうであるとか、それについて考える姿勢を持ち続けたいと思っています。心の片隅(無意識下?)に残しておくだけでいいという気も最近しています。

 そして、気づいたら〝あれ、いつの間にか抵抗なくなってる?〟という状態になることを願ってやみません……。

2024年7月10日水曜日

特定の地のカルマの清算?

           


 『ゴールデンカムイ』という漫画作品をご存じでしょうか。少し前に実写映画化し、その際に全巻無料で閲覧を開放していたサブスクサイトもありましたので、ご覧になっている方も多いかと思います。いずれ、先にこのサイトで取り上げた『望郷太郎』や『スケルトンダブル』のような分析もしたいのですが(両作品についても、引き続き考察を続けたくもあります)、今日は「後で見る」に溜め置いたYouTube動画の中から、気になったことについて書いてみたいと思います。

 (『ゴールデンカムイ』の読んでまっさきに思ったのは北海道の地の浄化でしたが、脱獄囚たちの業の深さと同時に人間存在に対する深い理解も同じくらいの濃度で凝縮された作品でした。それらのテーマは準備が整ったらいずれ書きたいと思います。)

 「可哀想なアイヌの出てくる小説や漫画はたくさんあってもう読みたくない」
 「可哀想なアイヌなんてもう描かなくていいから強くてかっこいいアイヌを描いてくれ」

 これは、作者の野田サトル先生が、作品を描くにあたって取材をした最初に、アイヌ関係者から投げかけられた言葉だったそうです。ーーはっとさせられました。

 大変デリケートな問題ではありますが、これは、私たちが歴史をはじめとする社会科の学びの中でよくあることだったと思います。「可哀想」という感情の〝押し付け〟には、そこに必ず強者と弱者の関係性が見え隠れします。

 中途半端にアイヌ文化を取り上げることは絶対にしないと覚悟を決めて最終回まで描き上げた

 作者がそう心に誓って何年もかけて完結に至ったこの漫画作品には、個性的なキャラクターたちに託して、アイヌの〈表〉も〈裏〉も同じ熱量で伝えんとする気概に満ちあふれています。漫画というメディアのエンターテイメント性の中だからこそ、語ることのできる〝真実〟を私たちは目の当たりにするのです。

 余談ではありますが、私が占い等でかかわっている方の中には、北海道に縁のある方が少なくありません。また、ここ数年、北海道で起きたいくつもの深刻な事件に心を痛めてもいます。いろいろ意見はあると思うのですが、個人的なカルマの清算が、北海道の地全体とともに起きているような印象を覚えていもいます。そうした流れの中に、『ゴールデンカムイ』も位置づけられるような気がします。

 それにしても、近年の若手の漫画家の方たちの実力には驚かされるばかりです。私の少し前の世代では手塚治虫先生が図抜けていたと思うのですが、いわゆる〝チャネラー〟型の作家が増えているのではないかと思うことがあります(手塚治虫先生は、ある古い一族の末裔であることを知り、さもありなんと思いました)。

 論より証拠ーーぜひとも、作品を手に取って読んでいただけたらと思います。

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