2024年6月30日日曜日

消された言葉

           


 先日、何がきっかけでその話題になったかは忘れてしまったのですが、占いの講座の生徒さんが〝「氣」という漢字は日本人がお米を食べることで大きな力を出せるということを意味しているけれども、戦後はそれをわからなくするために使わせなくなった〟ということを教えてくださいました。

 ちょうど先日、このブログで合気道の開祖とその弟子について取り上げましたが、私が教わっていた合気道の先生がやはり「気」を「氣」と表記していたのを思い出したので、消された言葉の話題に興味を覚えました(先生からは〝「氣」の中の「米」は自分の気が八方に広がる様子〟だと教わりましたが、その解釈も深いと感じていました)。すると、その後にYouTubeのフィードに次のようなショート動画が上がってきました。

 この動画の中では、「體(からだ)」「弥栄(いやさか)」「そしじ」〔主要な辞書等では掲載がありません。「そしじ」のみを扱っているこちらのサイトに詳しいです。サイトについて – そしじ.com (so-shi-ji.com)〕が紹介されています。

 たびたびこちらのブログでも登場する、とても霊的能力の高い方が今年に入って常々話しているのが、丁寧に言葉を使ってくださいというものです。いろいろしてくださる話の中で、世界各国の〝情報戦争〟がすでに始まっているということもくり返されています。ーーこのように、言葉と文化を貶めることは、目に見えない〝戦争〟なのかもしれません。

 たかが「言葉」と思われる方もあるかもしれませんが、言語を習得した私たちは「言葉」によって世界を認識しています。それというのはつまり、「言葉」のないものは基本的に存在しないということ(見えたり聞こえたりしていても、名前がないのでそれらを認識の外に追いやってしまう)であり、「言葉」によって評価をしているということ(動画を見てもらえばわかるのですが、実際の物や現象に対する価値を高めることも低めることもできる)です。

 私が言葉(国語)を専攻することから始めて、だんだんと日本の古典文学や思想書へと研究をシフトしていったことには意味があって(無駄なことではなくて)、貢献できることもあるのではないかと思える気づきでした。「言葉」とともに消されてしまった概念や人々の思い、書き換えられてしまった歴史上の事件や人物もたくさんあると思うのです……。

 この記事を100本目にできてよかったと思っています。

2024年6月29日土曜日

もう勘弁してほしい……

           


 このブログを勧められて始めて明日で100記事になりますが、正直、今日はまともな思考で書けそうにありません。

 この六月は、標題にも書いた通り〝もう勘弁してほしい……〟ということばかりでした。しかし、思い返せば私が教員時代には、時代がそうさせていた部分があるとはいえ、生徒や保護者にそうしたことを強いていたかもしれないと思ったりもして、静かに受けとめてはいます。

 本当に申し訳なかったと思っています。でも、強いなかったら強いなかったで、〝どうしてもっと押してくれなかったのか〟なんて言われたこともあったなと思い、また混乱します。とはいえ、基本的にはよかれと思って強いていたことの方が多かったはずなので、これぞ因果応報なのではないかという思いで落ち込みます。

 いろいろな人がいろいろなことを言ってきて、辛かった生徒もいっぱいいただろうなと思います。他者に危害を及ぼす問題行動はどうにも手をかけないわけにはいかないと思うのですが、怠学だとか生活習慣は微妙なところがありました。何より今思うと申し訳なさしかないのが、普通にがんばれているのに、受験勉強で上を目指させるといったことです。これは、教員側が熱にうなされてしまった感じになることもあり、今から思えば〝やっちまった〟感のあったことがいくつも思い当たります。

 生徒だってそれでは、学校に行きたくもなくなるわな……。現在の私の場合は、他者との連絡手段を断ちたいです。少し前に書いたかもしれませんが、人間関係を限定するというのは、宇宙的な(?)サポートを受けるためには絶対に取り組むべきことであると、その界隈では有名な方の講演会で聞きました。確か、公私それぞれ10人以内にするように言われたと思います。講演会の後すぐに、自分ではその段階ではできる限りがんばったのですが、そうそう思い切れるものではありませんでした。

 今日書こうと思っていたことはある程度決めていたのですが、まったく思いがけない記事を書くことになりました。今日書こうと思っていた内容は明日書くとして、101記事からはどうしようか悩んでいます。このブログは、とりとめもなく、順番もなく書いていっていますが、同じような悩みを持つ方がいたら役に立ってほしいという気持ちでいます。でも、私は人とズレているので、役に立ちそうもないのがまた悲しさを誘います。

2024年6月28日金曜日

師も弟子もすごい

           


 かつて若い時期に十年間くらい、合気道に取り組んでいた時期がありました。運動神経がブチ切れの私がなんでそんなものに興味を持ったのかは謎でしたが、ここへきて創始者・植芝盛平のエピソードなどをスピリチュアル界隈の本などで見るようになって、〝そういうことだったのか〟と妙に納得していました。

 また、現在、本や情報の断捨離を一段と進めている中で、YouTubeの「後で見る」に入れたままの動画を少しずつ視聴して削除したりもしています。今日は、合気道の動画が一つ入っていたので、それを見ました。私は動画を見た際にはコメント欄もチェックするのですが、たくさんのコメントが書き込まれていました。YouTubeのコメントは、書き込んだ順番ではなくコメントへの返信等がたくさんついて、影響度が高いとみなされたものが上位に来るようですが、考えさせられるものが多かったです。

この人の名言で一番好きなのは「絶対に相手に負けない技はなんですか?」と聞かれて「仲良くなりなさい」っていうやつ

塩田師範にとって最強の護身とは「自分を殺しに来た相手と友達になる事」と仰ってました これだけ攻撃的な合気を極めた人だからこその説得力がありますね~

 最上位のコメントとその返信の一つ目を引用しましたが、これには唸らされました(興味のある方は、ぜひ他のコメントもご覧になってみください)。

 そして、この方の師匠はどなたなのだろうと調べたところ、やはり植芝盛平でした。Wikipediaを参照したのですが、こんな記述が目に留まりました。

塩田は合気道の理合について、師・植芝が宗教用語や古語を用いた難解・抽象的な説明を行っていたのに対して、「中心力」「スピード・タイミング」と言った用語を使った平易な解説を心がけていた。また短期間で合気道の基本的な動きを身に付けられるよう、高弟である井上強一と共に、6種の基本動作と構えを編纂・制定した。

塩田剛三 – Wikipedia

 そうなんですよね。私もかつて植芝盛平の『武産合氣(たけむすあいき)』という本を持っていましたが、わけがわからなくて、かなり早めの段階の断捨離で古本屋に出してしまいました。
 塩田剛三はおそらく、植芝盛平が確立した合気道の優れた〝翻訳者〟であったのだと思われました。もちろん、このWikipediaの塩田の説明には、彼が超人的な訓練(身体のトレーニング)を行った逸話なども紹介されているので、彼は〝翻訳者〟である以前に技の優れた実践者かつ理解者であったはずです。その前提があって、合気道は塩田による深い探究と解釈の過程を経て、この動画にあるように海外にまで広まったのではないかと想像しました(私は合気道の普及に関しては詳しくないので、彼以外の功績のある弟子の方々も、きっとそうであったはずだということを断っておきます)。

 何かの技術や教えが師から弟子へという過程を経る中で、劣化するとか別物になるといった批判は、古今東西で起きていることです。しかしながら、創始者や開祖が生きていても弟子たち次第でそれは起きますし、その創始者や開祖自身の何らかの変化によって、自分自身で自ら打ち立てたものに変更を加えていくことも事実としてあります。

 私は、「仲良くなりなさい」「自分を殺しに来た相手と友達になる事」と発言されたという塩田剛三が、植芝盛平の合気道を少なくとも変質かつ劣化させたとは思えません。これが師の植芝盛平の発言や考えだったかは置いておくとして、この世で固有の身体と環境を持って生まれた以上は、師から受け継いだものがそれを通して違う輝きを放つものとなることは否定されないのではないかと、ユーモアをたたえて凛としてたたずむ塩田剛三の動画を見て考えるのでした。

2024年6月27日木曜日

私のパターン

           


 私は、人から強制されるのがものすごく苦手です。いや、むしろ反発を覚えます。ところが、どういうわけか、それを強いられて本領が発揮できなくなるような人物に遭遇したり、環境に置かれたりしがちです。

 今あらためて思い返すだけでも、まず父親の思惑に縛られて身動きが取れづらい前提があった中で、最初の大学院での指導教員がそうでしたし、職場に関しては、三連続で締め付けの厳しいところだっただけでなく、転職するごとに圧迫感が強くなりました(だんだんひどくなった)。
 受験勉強もだめでした。型にはめられるのがとにかくダメで、大学に入ってすぐに文献の扱い方を徹底的に教えられた後は、自由にテーマを決めて自分で学んで良いことに驚きました。比較的自由な職場環境でも、なぜか私の所属する部署の上司はやけに禁止するか押し付けるかするタイプで、まったく調子が狂って失敗だらけ、ますますストレスがたまるということもありました。

 実は、自分のこうした傾向というのは、私が扱っている「サビアン占星術」のシンボルにも明確に現れます。そのわけも今ならばよくわかるのですが、一般的な人たちの考え方や行動基準と私のそれとがかなりズレているので、結果的に嫌な思いをすることが多いのです。普通の人があまり気にならないことが気になったり、おかしいと思うと黙って流すことができないので、限度に達すれば反論し、無駄に反発したりするのが災いしています。それでも、譲れないというのは、そういう「パターン」を私が好んでいるからという考え方もできます。

 うまくいく時というのは、私のことを面白いと言って、強制をしないでゴールだけ与えてくれる上司や指導者に遭遇した時だと言えます。ーーまあ、数えてみると数名しかいないのですが、こんな性格なので数名でもいれば、その方たちには感謝してもしきれないかもしれません。

 現在、またしてもこの問題で岐路に立たされています。サビアン占星術でも示されている、エゴゆえにくりかえしてしまうパターンを払拭するには、自分の本領が発揮できなくても、大いなる目的(?)のために言われてとおにするという選択なのか、それとも、本領が発揮できない状態になることこそカルマであり、そんなことは糞くらえだと言って、これまでどおりそんな人間や環境は拒否して進むという選択なのか……。

 あるいは、第三の道があるのか。ーーこれこそが〝創造〟とされるものなのでしょうか。〝どちらか一方のみ〟ではなく、〝どちらもできる〟という世界になっているとしたら、私にも考えはありますが、ズレている人間の考える、ある意味で捨て身の方法です。どうあっても強制と押し付けは嫌です。私は誰かのコピーではありません。

(人にあれこれ言われたり、いろいろなことが集中したりするのもだめなので、しばらく引きこもれないかと思案中……。某SNSは、タイミングよく使えなくなったとしか思えません。)


 サビアン占星術による鑑定、占星術等の個別レッスンに興味をお持ちになった方は、以下をご覧ください。


「お問い合わせ」
https://zarara1111.blogspot.com/p/aipictors-httpswww.html

2024年6月26日水曜日

さようなら「ツインレイ」

                             


 現在の私は、〝脱ツインレイ概念〟および〝反ツインレイ市場〟の立場をとっています。「ツインレイ」の根幹には〝真の自己実現〟がある(そして、いずれその過程には、前世・過去世やカルマの問題が立ちはだかる)というスタンスです。

 昨日、とうとう「ツインレイ」の問題にひとつの決着がついたかもしれないということをお話しました。

 もし、「再会」だとか「統合」だとか思われた方は本当にごめんなさい。全然違います。また、ここに至るまでの方法も、ある程度までは他の方と一緒だったと思いますが、ある時期より大きく逸れていきました。詳しくは、以下の記事をご覧ください

これは最高の誕生日プレゼント?
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/blog-post_25.html

 いや、この問題はもう七年以上も私を苦しめたわけですし、正直、前世・過去世の長くて終わりがないかと思われたループを考えれば、こんなあっけなく終わるはずがないとも警戒していますが、とりあえず今は心穏やかです。

 断捨離を始めるようになってから、執着心が失せたものを〝手放せる〟ということができるようになりました。今日、「ツインレイ」を思って捨てるなどは考えたこともなかった物などを、見えないところに隠してしまいました(そのままポイするわけにはいかない物もあったので)。

 本当に「ありがとう」の一言しかありません。そして、それ以上でもそれ以下でもなさそうです。今月末を締め切りとして取り組んでいることを第一優先にしてきたので、それが終わったら、また断捨離だと思っています。

 私の場合、どうやら「ツインレイ」よりももっと厄介な問題がまだ潜んでいたようなのです。正直、「ツインレイ」問題が片付いたから、やっとその〝前世さん〟が姿を現したようなのです。正確には、ずっと私を突き動かしていたのは〝この人〟なのかもしれないのですが、私はもちろん、私が関わっている(きた)ヒーラーやチャネラーなどにも見つからないように、賢く大人しく立ち振る舞っていたのではないかと思います。ーーでも、誰よりも激しく、頑固で、この時代のこの国に生まれた〝私〟の、この歳になるまで経験を積んできた身心での〝発現〟を狙っていたのではないかと感じています。

 そして、多くの私の前世・過去世が、どうやらこの人の一途さに折れて、自分は引いてもこの人を応援しているのではないかと思うのです(だから、「ツインレイ」執着組の人たちというか、そのループにある人たちの世界から、それぞれの相手の〝幻影〟が消えたのだと考えています)。

 こんなことを書くと〝頭のおかしい人〟だと思われるかもしれませんが、どうぞ〝物語〟であると思って聞いてください。ーー見えない世界、前世・過去世を言葉によって表現するとしたら、〝物語〟にするしかないのではないかということを、ここのところ痛感しています。

 私自身が、「ツインレイ」よりも今手掛けていることを選んだのかもしれません。ーーもう、どっちでもいいです。いずれにせよ、「ツインレイ」以上に大事なのか、難問なのか、ゲームにたとえれば、まだラスボスがいたか、ボーナスステージなのか、これこそ本当の「残り5%」の可能性が大です。

残りの5%
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/blog-post_9.html

 「ツインレイ」ですら七年以上かかり、しかも相当に嫌な思いもしてきたのに、それ以上の面倒な問題はどのように解決していけばいいのでしょうか。このことをめぐって、またしても人間関係やライフスタイル、果ては性格まで変わってしまいそうな予感がしています。いろいろな人がいろいろなことを言ってくるのも、かつて何度か重大な選択を迫られた時と状況が似ています。

 間違えたくない。でも、間違えそうで辛い……。

2024年6月25日火曜日

これは最高の誕生日プレゼント?

           


 現在の私は、〝脱ツインレイ概念〟および〝反ツインレイ市場〟の立場をとっています。「ツインレイ」の根幹には〝真の自己実現〟がある(そして、いずれその過程には、前世・過去世やカルマの問題が立ちはだかる)というスタンスです。

 読まれていないことがもはや若干ネタとなっているこのブログですが、やはりというか、なんというか、「ツインレイ」関係の記事だけは読まれています。しかしながら、他の記事が合わせて読まれた形跡がないので、検索されてやっとたどり着いていただいた私の記事ですが、あまり役にも立っていないということなのだと思います。

 頑迷な私が、今までとはまったく違う道を歩み始めた直接のきっかけは、ツインレイらしき人間と出会ったことです。もうそれから八年目になるのでしょうか。ネット上に転がるものすごい数の情報、つまり、ブログの記事やYouTubeの動画等を読んだり視聴したりしました。また、これだと思うヒーラーやチャネラー、そういう類のカウンセラーのような人の講習会に参加したり、個別に相談したりもしました。しかしながら、違和感ばかりが大きくなり、多くの人が示すようなゴールがまるで見当はずれだという気がしてきました。ーーそうした中で、今の今まで継続して相談をしているのは、このブログにもたびたび登場するヒーラーの方がお一人だけです。

 そして、「ツインレイ」の問題を解決する大きなきっかけになったのは、前世・過去世の浄化とその理解であり、目に見えない世界に対する探究心でした。そのために、やはりこのブログでもたびたび書いているチャネラーとヒーラーの方の力を借りています。

 二か月くらい前、大きな転機が訪れました。とても仲の良いとは言えない両親、そのいびつな関係性が子どもたちにまで負の影響を与えるような両親がおそらくツインレイの関係であり、そこには輪廻転生の強烈なカルマの課題があるらしいことを知った時、私は一気に目が醒めたような感覚になりました。

 さらに、ヒーリングを受けたり退行催眠CDを聞いたりするうちに、私の前世の何人かの女性が、ツインレイの男性に対する歪んだ愛情や執着心を持っていることに気づきました。彼女たちは、私の意思をのっとるかのように激しく感情をぶつけてきました。彼女たちが常に、自分の時代のツインレイを求めてやまない様子がわかりました。

 ところが、何がきっかけかはまだよくはわからないのですが(思い当たることはありますが、ここでは明言を避けます)、私の内なる(?)彼女たちはおとなしくなり、彼女たちの相手の〝幻影〟も消えていました。今は静かに、独りでしっかりと生きている様子が感じられています。ーーそして、どういうわけか私のツインレイらしき相手への執着心も消えていました。

 もちろん、まったく思いが消えたわけではないです。あまり会うことはなくても友達は友達といった友人たちと同じ扱いになったといったところでしょうか。こうだからこうすべき、こうなるべきといった、自分ではない他者の意見や一般論的な関係性などについて、どうでもいいとなれる自分になりたいものです(若干まだ、このあたりに胸のうずきはある……)。

 私は、ツインレイとの関係性の落としどころ(?)として、〝嫌いになる〟〝忘れる〟〝どうでもよくなる〟という形でも十分だと思っていました。それに比べたらずっとよい方向に向かっていると思えています。

 ただし、別の面で問題が生じても来ています。「ツインレイ」をめぐるあれこれがゴールではないとわかった後に、私は一体何をすればいいのか、あるいは、取り組みたいと心から思うものを否定された時に、それが執着だと言われた時に、どうやってそれを判断すればいいのか、今の私にはわかりません。

2024年6月24日月曜日

答えがどんどん飛び込んでくるその一方で……


  久しぶりにというか、波動が上がった反動というのはこういうことなのか、自分の中で生じた問題の解決が見られません。もう十日が過ぎました。

 解決が見られないと言ったものの、実は、考える材料というのはどういうわけか次々与えられています。YouTubeのフィードに上がってきた動画、カバンに入れておいて電車の中で開いた本のページ、仕事で目にしたあれこれ……これでもかと、まるで誰かが必死に伝えてきているようです。

 現在、何を選択して続けていくのが正解なのかで悩んでいます。結論は出始めていますが、不安もあります。長く続けた仕事を辞めた時以来の状況かもしれません。

 ただ、問題があります。真実に至るために、どこまでどのように先達者の導きが必要なのかということです。あまり大きな声では言えませんが、私はあまり指導者に恵まれませんでした。つまり、人生で〝いい先生〟に出会うことがあまりなかったのです。

 余談ですが、先生に対していい思い出がなかったのに、それでも学校の教員になったのは、父親の思惑や周囲の期待に反するのを恐れたというのが大きな理由です。しかしそれであれば、自分がかつて先生はこうあってほしいと思った先生であるべきだとそれを〝演じ〟続け、結局、つぶれてしまった感があります(自己犠牲的なところがあったのは、教員の仕事とそこで出会う人間関係自体が、カルマの清算もあったからではないかと今は考えています)。

 話を元に戻します。五年くらい前、ひどい人間に師事しようとしたことがあります。相当に下劣な人間でしたが、私自身が当時〝欲〟と〝不安〟に満ちていて、その人間は私のその部分を刺激すればよいだけだったのでしょう。こうも簡単にひっかかったのは自己責任だと思います。その時の嫌な思いがあった(お金もかなり失いました)ので、押し付けと考える余地を与えないやり口には相当な拒絶反応があります。しかし、先にそうだと思ったのに違うこともありました。ーーその違いを考えてみると、他人を馬鹿にしているかとか、必要以上の金を人から巻き上げているかとかいうあたりになります。

 かつて嫌だと思った出来事というのも、すべてが必然で起きたことだということに納得されます。一方で、常識的な考えや態度を改めていかなければ、未知の世界には到達できないことも薄々わかってきました。一年前くらいにそれを指摘されて、望んだような新しい出会いがあったことを思い出しました。

 私は本職の占い師の女性に占いを教わりました。コロナ前に私から連絡をとって再会しましたが、コロナが始まって、占術や顧客獲得などに関する様々な考え方の違いが生じて、袂を分かちました。ーーその時はとても悲しかったです。しかしながら、長いこと相談をしているヒーラーの方からは、私の方が成長してしまったからだと言われました。

 一年前くらいにある方から指摘を受けたことは、言われたことの半分もできませんでした(自分ではがんばったし、周囲の人からは少し呆れられもしました)。できていないことを、何らかの力で迫られているような気がします。ーー本当にできるのか。いや、できるできないではなく、しなければならないのかもしれない。そうできるような偶然も重なっていますし、もしかしたら、これまでもそうした働きかけはあったのだけれども、気づけなかったのかもしれないと思うこともあります。

2024年6月23日日曜日

小さな悩み毎年

           


 先に、誕生日をどう過ごすかで悩んでいるかを書きました。

小さな悩み毎年
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/blog-post_21.html

 特別な用事などなく(また、無理に人に祝ってもらう必要もなく)、のんびり一人で過ごしたいというのが私のささやかな希望です。特に、今現在少し無理をしてもがんばって取り組んでいることに一段落つくのが誕生日の日なので、誕生日だからというのは関係なく、心身ともにくつろぎたいと思っていることに気づきました。誕生日だからひとりで寂しいという思い込みも何ですが、誕生日だからくつろぎたいというのもまた思い込みなのかもしれません。そうではなくて、やはり休みたいというのが私の本音だったようです。

 そして、ピンポイントでその日に用事を依頼してきた方の本音も、期せずしてわかったというか、自分と同じだったらしいというのがわかりました。私がその日に対応しなくてもできる代替案を出して、誕生日に予定を入れないというささやかな望みは守られました(笑)。

 しかし、人の悩みとその解決策は、個人個人によって異なるということが重要です。今回は〝断る理由のあまりない頼み事を断るか否か〟という問題でしたが、悩むまでもなく断る人もいるわけで、逆にそういう方にとっては、〝断らないで受ける〟という選択に意味があったりするわけです。ただ、そうすべきである理由なども個々に異なるので、よくよく悩みの本質的部分を見つめる必要があることを感じています。 

 私は、人によく思われたくて(悪く思われたくないので)、人から頼まれるといつも嫌だと言えずに承諾してきました(余談ですが、今現在問題が噴出している自分の母親も、このマインドと態度が身心の困難の原因であると考えています。ただ、私よりもさらに二十歳以上年上の母親のマインドは凝り固まってしまっています。もっと早くにいろいろなサインはあっただろうに、そのたびに本人は(あるいは周囲も)それを無視してきたのではないかと思いました)。
 逆に、〝うわ~、けっこう自分の都合押し付けるよな〟って人があるのは事実です。私は先の数年で、こうした図々しい人たちの依頼は即座に断るように努力し、自分の悪いマインドと態度を随分と断ち切ってきました。

 人からこうした方がいいよということがほとんど合っていて、そのアドバイスをきいて効果が得られるのは、生活レベルでの問題が目立つ段階の時ではないかと思います。しかし、真の自己実現度(先にあげた記事では、その達成度が私は95%だということでしたが、その前後のレベル程度)が上がってくると、大多数の人が言うことが正しいとはなってこないのかもしれません。

残りの5%
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/blog-post_9.html

 ただ、私には自分の行った選択がエゴ(自我)によるものか否かが、いまひとつよくわからないのです。長いこと相談をしているヒーラーさんからは、迷った場合には「愛」を基準にするよう助言がありました。しかし、何しろ「愛」がわからずに疑い、もがき苦しんできた前世・過去世を持つ人間であるので、そのセンサーはほぼぶっ壊れているのではないかと思うのです。それが、現在の悩みどころです。そして、私にとっての最難関の残り5%の部分であるのでしょう。

 今考えていることは、今以上に生活をスリムにして、入って来る情報もまた減りに減らしてみてはどうかということです(これには、拠り所があるのですが、べつの機会にお話しできればと思います)。まだまだ、余計な物事を押し付けられている(あるいは、すすんで受け取ってしまっている)から、自分の軸がぶれて混乱するのではないかと考えています。

2024年6月22日土曜日

過剰さに混迷する

           


 私はタロットカードに関する講座(占いの方法などを教えるのではない講座)も展開しています。以前も、講座の中の気づきをこちらで記しています。「正義」のアルカナについてです。

タロット・カードは前世の鏡!?
https://zarara1111.blogspot.com/2024/04/blog-post_23.html

 今回は「正義」のアルカナにも関係する、「剣」のエレメントについて考えてことをお伝えしたいと思います。

 現在、長いこと抑圧されていた女性のさまざまな権利や不当な処遇について、声を上げ、改めていこうという全世界的なムーブメントが起きていることを、あらゆる機会に実感しています。それらは、単に「女性」というだけでなく「女性性」の問題にも関連しており、大きな関心を払っています。

 しかしながら、あまりにも長きにわたり男性と男性性のもとで押さえつけられていたためでしょうか、解放されつつある女性と女性性のあり方に対して、過剰さを覚えることも多々あるのです。私自身、ブログの記事のタイトルをズバリな感じにしないのはそのためです。今、フェミニズムに抵触するようなことを発言すれば、攻撃されて、ひどい目に遭うことが多いからです(読まれてないので大丈夫といえば大丈夫なのですが、念のため)。仮に〝その攻撃は間違っているのではないか〟と思ってくれる人がいたとしても、怖くて仲裁したりもできない空気が生じたりもしています(少しだけ存じている方(男性)が、本人だけが悪いのではないのに、一方的に(女性から)やられたような形でさまざまなものを失った出来事を見聞しています)。

 最近、話が面白いので視聴しているVtuberさん(男性)の発言が、ご本人はウケ狙いのネタだと思うのですが、なんとなく核心を突いている気がしました。それというのは、ある問題で意見表明していたフェミの女性の動画を視聴た際に、その女性の見た目がかわいくてムフッって気持ちにもなったらしいのですが、彼女の言っていることがおかしいのでまったくそういう気持ちがなくなりました……というものです。失笑しました(正直、こんなおバカなネタですら(Vtuverさんも私も)攻撃されないか心配になってしまう……)。

 最近、岡田斗司夫さんらが問題提起されていますが、〝エロくて臭くて汚くてキモイ〟とレッテルを張られた「オジサン」が、新たな弱者となりつつあることを問題視していました。かつて抑圧されていた側が、解放の勢いに乗って抑圧していた側を攻撃する……ある意味、報復ともとれるおぞましい個人個人の無意識的・無自覚的な行動が、社会現象として許容されてしまうような社会であってほしくないと私は思います。

 また、過激な「自由」にも異を唱えたくなります。某都道府県知事選の選挙ポスター問題、あれ、何ですか。売られたポスターの枠内の無関係でえげつない広告(かわいい動物イラストとか、無駄にほっこりするのがあって、これはこれで厄介……)が放置されて警告のみというのが、もはや私には理解不能です。

 選挙ポスターは勝手に剥がせば公職選挙法違反なので、それを逆手に取っている小賢しさは認めざるをえませんが、品がなさすぎますし、一体目的は何なのでしょうか。この行為によって選挙がばかげていると多くの人に思わせ、一石を投じるというならばまだしも、悪意と金儲けの匂いしかしません。枠を買った人たちは、さらにそれらに加えて承認欲求の匂いがして、不愉快極まりないです。

 タロットカードの「剣」はあまりよくわからない、現代社会にはなじまないのではないかといった、私の講座の中での反応などを受け、タロットカードのエレメントがこの世からなくなることなどあるのだろうかとずっと考えてきました。ーー正義や公平・公正のために〝切り捨てる(排除する)〟という「男性性」の働きが、「剣」で象徴される働きの一つだと言えます。そして、私の前世・過去世の多くが、スピリチュアル界ではもう手放しましょうとか言われている、法律や裁判、言語による議論等との関わりであったのではないかと感じています。そこで培ったであろう思考や判断とは、お別れするのが正しいのか否かで悩んでいたら、こんなことばかりの世の中です。

 なんでも無軌道に許し、受け入れることは、母なる「女性性」が持つ負の側面であり、それを〝断ち切る(排除する)〟のは、父たる「男性性」が行うことであるというのは、大学の時にユング心理学を専門とする先生の教育心理学の講義で教えられたことでした。

 私は別に活動家にもなりませんし、ブログでこれ以上の意見を発信するつもりはありません。ただ、「剣」を手にする「正義」のアルカナの「正義」とは、後から習得する概念ではなく、生得的な感覚であるというその導きを私は信じて、物事を判断していきたいと考えています。混乱に巻き込まれるのも、(私のような取るに足らない小者であったとしても)自分が巻き起こすのも御免です。

2024年6月21日金曜日

小さな悩み毎年

           


 子どもの頃は誕生日が楽しみでしたが、ある時期から周囲には黙っています。SNSの類でも生年月日は公開にならないようにしています。あまり親しくない人からお祝いのメッセージが届いても、返信する時間と労力に疑問しか感じないからです。年を取ったからという理由ではなく、特別なことでもなんでもないと思うようになったからです。

 そんな思いがあるので、三年前に別にいいだろうと思って予定を入れて、詳しくは書きませんが、おそろしく体調を崩しました。夜にオンラインで鑑定をしていたのですが、脂汗が出て苦しくなり、お客様にお詫びして早めに切り上げて寝込んでしまうくらいでした。翌日は食事もとれませんでした。人に頼まれてのことをしてだったので、翌年は絶対に人と会う予定は入れまいと誓いました。

 独り心静かに過ごしたいと思ったのに、昨年も不本意に終わりました。昨年は、日中に仕事があったとはいえ、夜の自由な時間にオンラインの集まりを入れてしまいました。定期的に実施していることだったので、先方が日付をかなりピンポイントで指定してきて断れませんでした。とはいえ、誕生日だから避けてほしいと言えば逆に、みんなでわいわいしようというのがこれまでもあったので、やはり向こうの希望をのんでしまいました。

 今年は幸いにも一日自分だけの時間が過ごせそうでした。しかし、またしても人から頼みごとをされてしまいました。しかも、自分にとってはかなり断りづらい内容です。要件自体は、一日のうち1、2時間程度のものです。それでも、悩んでしまいます。二年前の出来事がよほどこたえていると自分でも感じました。

 長いこと、誕生日その他、記念日みたいな日はひとりがいいという発想にはなれませんでした。世間の人並みに大事な人たちがいて一緒に過ごすといったことが、〝満たされる〟条件だと信じ込んでいました。でも、私はそうではなかったのです。1、2時間程度の頼みごとなら聞いてあげればいいじゃんと思う方は多いでしょうし、私もそう思います。それでも、どうしようと悩む自分がいるのは、最近、いわゆる常識と非常識、一般論と持論みたいなものの狭間で悩むことが増えているからだと思います。

 誕生日で、別に着飾ってどこかに誰か特別な場所に行くとかではなく、ただ家でぼんやり過ごしたいということでは、断る理由に値しないと自分で思ってしまっているのです。一方で、最初に戻ると、誕生日だからって、特にこだわる必要はないでしょうという考え方もできます。二年前の人や要件とはまったく違うのですし……。

 いかにこの結論をくだし、当日はいかなる一日を過ごしたのか、日付が特定されないように注意しつつ、こちらで記すかもしれません。

2024年6月20日木曜日

言葉によって認識が拡大される?

           


 占いの学びのひとつの試みとして、読書会という形で占星術のテキストを単に読むということを行っています。参加者は本当に少ないです。決してお金儲けで取り組んでいるわけではありませんので、それで一向にかまいません。

 昨日の会も充実したものとなりましたが、言語を専門の一つにしている自分にとって、大変興味深い気づきがありました。言葉を知ることによって、認識が拡大するのではないかというものです。

 子どもの頃の私たちは、大人になった今よりもずっと多くの現象を見たり聞いたり感じたりしていたのではないかと思われます。しかし、三次元的な様々な制約によって、その一つが言語ではないかと考えるのですが、獲得しえた言語の範囲でしか認識を行えなくなっていくというものです(言葉の役割は切り分けて、取捨することです)。よって、語彙のない現象や存在(主として、視覚や聴覚で認識されない事物)は、私たちの認識からは外れていくことになります。

 昨日の会の中で、参加された方の一人が、小さい頃に自分を見ていた〝何か〟が、スピリチュアル的な学びをすすめる中で、ある特定の語彙を与えられるような存在だったのではないかということをおっしゃっていました。ーー私は、なるほどと思ったのです(言語学の講義や書物ではさんざん聞かされたり目にしたりしている言語の一機能だったのかもしれませんが、それらを本当の意味で〝理解〟できることなど、もしかしたらほとんどしていなかったのかもしれない可能性を思いました)。

 このブログでは、「人間存在に関する視野の狭さを払拭すること」についてくり返し述べていますが、それには学びによる知識=それを表現する言葉の獲得がセットとしてあるべきなのだということをあらためて確認できました。私自身、「マンデラエフェクト(マンデラ効果)」という言葉を知って、自分の身の回りに起こる不思議で少し怖い出来事に関して得心したことに象徴されています。

視野の狭さに気付かされる〝本物〟に出会う
https://zarara1111.blogspot.com/2024/03/blog-post.html

マンデラエフェクト問題2024①ー私の場合、あなたの場合ー
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/httpszarara1111_30.ht

 私が今現在、「岐路」に立っていることはここ数日の記事で触れているのですが、その方向性が見えてきたような気がしています。この世界には、言語ではすくい取ることのできない世界もまた存在するとしても、私たちは個別的な身体を持って日々生活しています。将来はわかりませんが、現状では言語を手放すこともできません。その事実に対して、真剣に向き合ってみたいと思うのです。


 人間存在についてこれまでとは違う観点から学ぶことができる、ユング心理学をベースにした占星術の講座を開講しています(個別対応型の講座です)。
https://resast.jp/stores/article/22545/73121

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2024年6月19日水曜日

いきなりそうくるか

           


 今現在、なんだかよくわからないけれども、岐路にいるらしいのは自分でもわかります。ここのところたびたび書いている、某SNSが使えない状態を放置していることも、その思いに拍車をかけているのがわかります(自分の内面との対話みたいな日々になっている)。

 そんな中、このブログでも時々触れている、チャネリングの能力の高い方の情報発信から一冊の本を知りました。ーーパム・グラウト氏の『「感謝」で思考は現実になる』です。

 主に買取依頼で利用している古本屋のサイトで見つけたため、届け先住所が実家になっていたのですが、たまたま今日実家にいてすぐに受け取ることができました。封を開けてパラパラっとページをめくり思わず〝うわっ〟と思いました。ーー折り目や、鉛筆や蛍光ペンでの線引き書き込みが無数にあったのです。確かに、「書き込みがあります」という注意書きがあり、かなり安く手に入れたので文句は言えません。

 しかし、パラパラっとめくったページのある語句に目を奪われました。

 「猛烈な感謝」
 「見境のない感謝」
 「私たちの人生には、うまくいっていることが数えきれないくらいある。しかしそれは、意識して見つけようとしないと、そして見つけたらすぐに感謝をしないと、頭の中にある意地悪な声にすべてかき消されてしまうのだ。」

 引かれている線を見て〝なぜそこ!?〟みたいなものがたくさんありました。私なら絶対に引かない。だが見方を変えれば、この本の前の持ち主の、自分とは異なる感性に触れることではないのか。巷では、有名人の線引き本が新刊本よりも高値で取引されているらしいし……。そう思ったら、本を読むのはより楽しくなるのではないかと思いなおしました(所定の期日内で購入した古本屋に買取依頼すると、かなりの高値で引き取ってもらえることもわかり、早く読んでしまおうという気にもなっています。

 冒頭で「岐路」という語を用いましたが、これまで以上に多くのものを手放そうと思っています(できるかは別問題として)。ところが、手放そうと思った事物と関連するものが急に手に入ったりする事態も起きていて困惑しています。

 長いこと相談をさせていただいているヒーラーさんには、〝愛〟を基準に選択するように助言をいただきました(〝愛〟がよくわからないという、致命的な欠陥が私にはあるのですが……。万が一間違って選択をしても、〝愛〟が何かを知ることに一歩近づくからラッキーという「感謝」をしようということでしょうか)。そういえば、一年前のこの時期に、何年も続けていたSNSを思い切ってやめ、その後、無理だろうと思っていたことにひとつの解決を見たりもしています。

 また一歩、未知なる世界に踏み出せということなのかもしれません。しかしながら、残すべきものもあるのかなという感じで、柔軟な姿勢で向き合えるといいなと思うのです。

2024年6月18日火曜日

身体がかなりの変化を見せる

 


 昨年末くらいより、腰回りの贅肉が気になって、YouTube動画でたまたまフィードに上がってきた〝アンダーカロリーダイエット〟という方法で、体脂肪を減らすべく食事を記録してカロリーを制限してきました。名称が横文字なのでたいそうな方法なのかと思われそうですが、何のことはない、一日の摂取カロリーを消費カロリー以下にするものです。記録用のアプリなどもいくつもあるので、とにかくまめに入力して、設定したカロリーを一日ではなく一週間や一か月単位で調整しながら継続するのです。 

 半年が過ぎた頃から体重とともに、体型にかなりの変化が見られてきたのが自分でもわかりました。大きく変化した要因に、無農薬野菜や低農薬野菜を食べ始めたこともあります。調理は少し面倒とはいっても、どうにも野菜がおいしいので、外食したり出来合いの総菜などを購入して帰ることも減りました(ちょうど、いろいろと出費があって、緩み始めていた財布のひもを締めたところもあります)。

 数年前にファスティングをしてから、夕食の炭水化物は控えていました。そして、前世・過去世のヒーリングを受けるようになってから、肉食の罪深さを思い、魚介類や肉類もほとんど口にしなくなりました。タンパク質不足が懸念されましたが、どういうわけか大丈夫です(ちなみに、大豆類は毎日摂っています。時々、プロテインも飲みます)。

 最近はお腹が減らないというか、正確に言うと、一回一回の食事で大変満足して、それ以上もっと食べたいとか、やたら食べたいとか思わなくなっているのに気づきました。お菓子が好きなので、砂糖や小麦や乳製品の類も口にしますが、食べないといられないということではなくなりました。

 ふと気づいたのは、コンビニなどでいろいろと買いまくって食べていて太っていた頃というのは、心の中にあれこれと満たされない、寂しい思いがありました(食べ物に対して申し訳ないという気持ちもありました)。今でも、気持ちが落ち着かなくなる時に食べ過ぎてしまうことがあるのは、それだと思いました。

 以前、〝野菜は食べられて嬉しい〟ということについてお話しました。

花は切られて与え、野菜は食べられて嬉しい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_19.html

野菜を食べて受け取り下手を克服したい
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/blog-post_10.html

 こうした現象というのは、農家の方に大事に育てられた野菜たちの〝愛〟をいただいているので、お腹も心も満たされるのではないかと考えました。食卓に上がる命に対して、心から〝ありがとう〟を述べたいと思います。

2024年6月17日月曜日

大雨の日に小さな望みの数々がかなう

          


 今日は今朝からかなりの大雨でした。大事な用がありましたが午前中早い時間に済み、雨靴をしっかり履いていたこともあったので、チャンスとばかりに買い物に出かけました。

 なぜ雨の日の買い物がチャンスなのか。ーー人の多い場所が苦手な自分にとっては、雨の日は人出が少ないので、足元がぬかるむことさえ気にしなければ、買い物には好都合の天候なのです。案の定、街は空いていました。そして、ほしいと思っていて身近では手に入らないかと思っていた品物を、近所のスーパーで見つけたりしました。

 某チェーン店で久しぶりに、コーヒーの入った小さなカップを手渡されました。感染症対策でずっと休止していたので、〝ああ、コーヒーを試飲できる日常が戻って来たんだ〟と実感することもできました。このように、雨の日だからといって悪いことばかりではないと思いました。

 朝一番の大事な用事の関連で、今年にしなければならないあれこれの日程も確定しました。予定を手帳に書き込んで、迷っていたあれこれを断っていいのだとも思いました。このように自然に、役割の終わった人間関係とは無理なく疎遠になっていくのだと思いました。

 前回、自分でも波動が上がってきた自覚があることを記しましたが、こういうささいなこともその証拠なのだと思いました。とはいえ、波動が上がると願望実現がしやすくなるとかいうのも、身の丈に合わない無駄なあれこれを欲しがらなくなるから、結果的にかないやすくなるだけなのかもしれません。

 私にはそれで十分だと思います。本当に大事なことを見極めて、自分が何者で、何をすべきであるのかを知るのが最も難しいと、これまでも、今も、感じています。

2024年6月16日日曜日

行き詰った……けれども、今までとは違う

 


 波動が上がったらその反動があるーーとは、長いこと相談をしているヒーラーさんがおっしゃったことでしたが、聞いて早々に自分の身を襲うとは思いませんでした。波動が上がってきたという実感がありました。そのひとつの現れとして、感情はほとんどアップダウンしなくなりました(以前はどうにもならない状態でした)。ところが、本当に久しぶりに、人前であるにもかかわらず感情がおさえられなくなり、収拾がつかなくなりました。

 しかし以前と違うのは、それに振り回されて終わらないということでした。冷静にその状況を分析して、決して感情に飲み込まれることはありませんでした。なにしろ、感情とは無意識下に潜む未解決の問題のサインなのですから、分析しないわけにはいきません。当たっているかは不明ですが、私は感情をぶつけた相手に対してメールのやり取りをする中で、それが何かを探っていきました。ーーたぶん、当たりだと思います。なぜならば、感情がおさまって、むしろ前より穏やかになっているからです。

 とはいえ、この問題は人を巻き込んでしまったので、どう転ぶかが気になってはいます。感情の問題は基本的には人間関係とともにあるので、人を巻き込むというのは当然なのかもしれませんが……。波動が上がると人間関係にも変化が起こるというのは、スピリチュアル界隈の動画ですらよく見る情報ですので、どう転んでも粛々と受け入れるしかないのでしょう。こういうことにもうろたえなくなるのが、波動が上がるということのようです。


 感情と人間関係(さらにそこから発展して、前世・過去世のことも)について学ぶ、ユング心理学をベースにした占星術の講座を開講しています(個別対応型の講座です)。
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2024年6月15日土曜日

自分の身は自分で守る


 YouTubeでのフィードに、ある政治家さんの生前の記者会見の動画が上がってきました。かっこいいサムネイルに(動画を作成した方の思いが伝わりました……)に魅かれ、思わず視聴してしまいました。〝ああ、敵も多かったけれども、それは覚悟で国と国民の利益になる発言をしていたんだな……〟と思いました。時間が経ってみてわかることが、このところ自分の中でも多くなってきました。

 その動画とは反対に、陰謀論のようなものもあったとはいえ、日本の政治の衰退ぶりには驚きを隠せませんでした。さらには、警察や役所、学校など、自身の利益のために好き放題しているか、そうでなくても保身に走っているかのような動画も合わせて上がってきて、いくつかを視聴しただけで愕然としてしまいました。

 一部のことなのかなと思いながらも、このブログでも、小学校のお子さんの件で学校に対する信頼感を失くした友人について書いたこともありますし、そう言われてみれば、占いの生徒さん方が、役所や警察署で嫌な思いをさせられたと話をしていたのを思い出しました。

教育問題2024ー私の場合、あなたの場合ーhttps://zarara1111.blogspot.com/2024/09/2024.html

 最近、同世代かそれより少し下くらいの方とこんな話をしました。ーー職場の上の年代が、下にポストを譲らないのが様々な面で弊害になっているといったことや、国や自治体とのつきあいは仕事上だけで、個人的には絶対に国家権力にはかかわることがないように自分を律して生活している、というものでした。

 また、いつ何があってもいいように、ミニマムに生きているともおっしゃっていました。確かに、男性の方でしたが、お昼は家で作っていたお弁当でした。経済的にも、食品添加物などの面でも、確かにベストの選択ですね。

 私が学校の現場にいる頃は、ここまでに思ったことはありませんでした。しかし確かに、地方都市を出る時に勤めて学校のブラックぶりをある団体に訴えましたが、軽くあしらわれたことがありました。そういうことだったら、自分の身は自分で守るしかありません。

 前回のブログで記したように、リアルでもネットでも〝悪所〟には近づかないことが第一ですし、上で例に出した知人のように慎ましい生活を心掛けるのが何よりでしょう。冒頭で紹介したような政治家はもう出ないのかもしれませんが、出るとしても、私たちのような凡人にはそのお役目はありません。しかし、凡人だからといって、力のある何かや誰かに頼るという生き方をする時代も終わったということなのかもしれません。凡人としてのなすべきことがあるということなのだと思います。

二極化問題とSNS
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/sns.html

2024年6月14日金曜日

二極化問題とSNS

 


 仕事上、一日PCに向かうことも多い私ですが、最近は、政治家等の有名人の言動についての暴露動画ながやたらYouTubeのフィードに上がってきます。根も葉もないものもあるとは思いますが、火のない所に煙は立たないということわざもありますし、同じような内容の動画がいくつも作成されたりしていると、〝そういう人間性なんだろうな〟と納得されることもあります。

 携帯電話やスマートフォンの普及で、子どもたちの間でもSNS使用が普通のこととなり始めた頃に学校の現場にいた私は、リアルのいやがらせやいじめ以上の対応の困難さを覚えました。しかしながら、リアルのいやがらせやいじめ同様のことが、SNSに場を変えただけだというのも理解できました。成熟した集団においては、リアルの世界同様にSNSの世界においても問題は起きにくい一方で、その逆の場合は、問題が深刻化する傾向にありました。

 ゲームやSNS依存に至っては完全に個人の問題でしたし、最終的には個々の人間性に拠るところは大きいです。スマートフォンとSNSの登場により、人格形成が何にも増して重要であるという確信を得ました。

 よって、SNS有名人や成金が、有名人や成金になった同じツール上でふと漏らした一言が炎上して没落するというのもおおいにありえることですし、権威・権力のある人物の不用意な一言や公共の場での振る舞いなどがネット上で拡散されたりして、その地位を失うこともあるわけです。人間性の面で問題がないのであれば、まず問題の火種がありませんし、誹謗中傷であれば相手にしないか適切な措置を取れば大過なく終わることが多いです。また、たとえ本人の過失だったとしてもリカバリーできる余地がおおいにあります。

 SNSやYouTubeは、本人の閲覧履歴、フォローや登録チャンネルをAIが解析して、その人その人に合わせた情報を送ってよこしています。他人のスマートフォンの中身は魔窟だったりするんだろうなと思うことがあります。子どもの頃、近づいてはいけないと大人から言われた場所があるように、ネット上にもそういう〝悪所〟はあるのだと想像されます(リアル以上にヤバそうです……)。

 現代だと、リアルが先かネットが先かがわからなくなっていますが、そういう場所に近づかないのは大事だと思います。人生は出会う人間で大きく左右されてしまいます。ただ、いろいろな面でその棲み分けや分断は大きくなっていて、まさに〝二極化〟の様相であるという印象を受けます。そして、この両者が遭遇せざるをえない様々な場所(ネットだけでなくリアルでも)で、衝撃的な事件が起きているのではないかという恐怖を感じています。

 それでもまずは、できる限り〝自分の身は自分で守る〟ことに心を砕くことが、〝二極化〟を生き抜くために必須ではないかと考えます。少なくとも、何かがあった後にSNS等で〝あの人ならそうなっても仕方がなかった〟などと言われて、不特定多数の人にそれネタにされ、肯定される人生というのはどうかと私ならそう思います。

2024年6月13日木曜日

終わったら離れます


 連絡用のあるSNSが使えなくなって半月以上が過ぎました。不便かと思いきや現在のところかなり快適です。前回は父親が流し続けるTVの〝雑音〟の話をしましたが、情報も目に入ってしまえば意識に働きかける〝雑音〟なのですね。思えば、そのSNSを始めるきっかけとなったコミュニティは解散してしまったわけですし、家族も私と同じ考えでそのSNSは使用していないので、困ることなどほとんどないのです。

入院は強制的に〝雑音〟から逃れるチャンス
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/blog-post_12.html

 ただ、個人ではなく複数人での連絡には大変すぐれているツールです。友人・知人のグループや特定の目的のためのグループを作成して連絡してくださっている係の人には負担をかけたくありません。ゆえに、まったくやめてしまうのも考えもので、再開時期やそのあり方については考え中です。

 さて、そのSNSでグループを作成されていて、今後どうするかの面で悩ましいコミュニティがひとつだけあります。とても好きで参加していたのですが、ある時期から参加が辛くなってきました。あまり関わりたくない感じの人たちが参加したのがその理由の一つですが、以前は親しくしていた人たちの印象がだんだんと変わってしまったことが大きいです。

 もしかしたら、現在の方がその人たちの本性だったのかもしれないと思うこともありますが、マンデラエフェクト現象の一つなのではないかと思うこともあります。そのコミュニティには、感染対策の行動規制があった時期に参加し、その行動規制が解除される頃からだんだんと参加が辛くなってきたのに気づいたからです。

 私自身、行動規制がなければそのコミュティを発見して、参加することもなかった気がします。それから数年の間、そこでの学びがあったのですが、参加をどうしようか考え始めた頃に、もう自分一人でも学べると思い、また、そのコミュニティに変わるリアルでの学びの場(コミュニティよりも自分の目的にあった、少しレベルの高い場所)を見つけもしたのです。

 最近では、そのコミュニティでのすべきこと、つまり、お互いそこに集まって何かをする〝課題〟や〝役割〟を終えたのではないかと解釈しています。子どもの頃、『ドラえもん』の映画のラストシーンで印象に残っている場面があります。確かタイムマシンだったと思いますが、それを使って行き来していたドラえもんとのび太たちが、だんだんとお互いの世界(時間)がつながらなくなり、両者の入口の距離が開いていき、限界だという時にお別れをしたというものです。

 大人になって不思議なことを体験した今では、もともとがつながるはずのない世界(時間)だったところに、必要があって限られた期間だけ両者が何らかの縁でつながっただけで、別れは必然だったのだな……ということをその場面にとらえることができます。

 私とそのコミュニティでも、同じ現象が起きているのかもしれません。しばらく参加することなく久しぶりに参加したところ、違和感を覚えて〝もう参加しないだろうな……〟とふと思ったのです。ただ、別の形でかかわらなければいけないことがあり、そのかかわり方については少し問題があったのですが、そちらにも適切なあり方で対応すようになるのかもしれないと考えました(話題にしたSNSは確かに便利ですが、否応なく人がそのシステムに取り込まれていくことを不快に感じます)。

 マンデラエフェクトは身近な場所では起きにくいと、前世・過去世の問題を相談しているチャネラーさんには言われたことがあります。少し遠い場所で起きやすいと教わりましたが、時間をおいて訪れた〝場所〟などはその対象なのかもしれません。オバちゃんのたわ言と思って聞いていただければと思うのですが、時々、感染症対策の行動制限前の世界に戻ったのではないかと考えることがあります(そう考えた理由については、また別の機会に譲ろうと思います)。

 私が私であるために、いまだ足りないピースを求めて過ごした数年間は、ドラえもんやのび太のように別世界とつながっていただなんて……人生がおもしろくないわけなどないですね!

マンデラエフェクト問題2024①ー私の場合、あなたの場合ー
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/httpszarara1111_30.html

マンデラエフェクト問題2024②ー私の場合、あなたの場合ー
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/2024-szsymphony.html

マンデラエフェクト問題2024③ー私の場合、あなたの場合ー
https://zarara1111.blogspot.com/2024/06/2024.html

2024年6月12日水曜日

入院は強制的に〝雑音〟から逃れるチャンス

                             


 私の父親は、自分でも公言していますがTVが大好きです。字幕の文字が見にくくなったからというので、思い立ってすぐに問題のないTVから大画面のTVに買い替えをしてしまったほどです(そして、前のTVは使わないまま寝室に置いています……やめてほしい)。

 私も〝社畜〟生活をしていた頃は、帰宅すればすぐにTVを付けていました。しかし、今は大河ドラマとネットで知りえた見たいと思った番組を見るくらいで、正直、手放してしまってもいいくらいの状態です。番組がくだらなくてうるさいばかりで、昔のドラマやドキュメンタリーなどを放映してくれた方がいいと思うほどです(実際、それはネットなどの有料のサービスになっているようですね)。TVはオワコンだなどと言われていますが、そうだろうなと思ってしまいます。ただ、団塊世代より上の方たちの黄金時代を象徴する娯楽ですので、それを父から奪う気はありません。

 しかしながら、実家に帰るととにかく騒々しくて、落ち着かない気持ちになります。以前も記しましたが、父親は片付けもできない人なので、居心地が悪くてたまらなくなってしまうのです。

落ち着かないゾーン
https://zarara1111.blogspot.com/2024/05/blog-post_17.html

 そうした中、実家にいる母親に手術をするかの決断を迫られる状況が生じました。当初私は手術には反対だったのですが、今は考えが変わっています。なぜならば、父親の発する〝雑音〟からある一定期間強制的に離れることができるからです。正直、手術後の定期的な通院も必要なため、病院に近い私の所に手術後はしばらくいるようにも勧めています。

 父親は、読者の方には信じてもらえないほど、自分一人では日常生活のことが何もできません。母親は、それに躊躇して私には返答しないでいます。しかし、入院をして強制的に父親から絶え間なく発せられる〝雑音〟から逃れられれば、考えも変わると目論んでいます。とはいえ、最後は母親自身で決断することですし、今はこう考えていても、未来は不確定でいくらでも変わる可能性があります(両親には、両者の間で前世・過去世をめぐる強烈なカルマがあるようなのですが、私の力ではいまだ知りえません)。

 話を最初に戻しますが、父親の〝雑音〟攻撃がいかにすさまじかったかは、私が一人暮らしを始めてですら二十年近くかけて解き放たれた今だからわかったことです。また、父が老いて私の方が強くなってきたこともあって、やっと呪縛が解けたということもあります。ーー感覚的な攻撃性をまき散らされ、無自覚にそれに曝されることの恐ろしさに、多くの人が気づいてほしいと思います。

 父親を悪く言うつもりはありません。ヒーリングの練習をした際に、指導してくださったヒーラーさんから、母親が抱える愛情の問題を指摘されました。そして、私の家族は皆、愛情の面で大きな問題を抱えています。特に父親は、いろいろな面での不足を横暴さでごまかしていた、寂しい人なのだと思います。ただ、こうした家族の問題は、昭和世代の家族の多くが私たち家族同様に抱えている問題である気がしています。

 考えてみれば、母親はこれまで何度も入院をしていますが、私を含め家族は何も変わりませんでした。それではいけなかったのです。特に父親は、母親への依存から〝自立〟するべきであったのに、それをしませんでした。そして、厳しい見方ではありますが、母親も結局それを許してしまったのだと思われます。ーー家族のことを書くのはとても恥ずかしいですし、苦しさもあるのですが、これを読む皆さんにとって〝自分だけではないのだ〟と思って、何らかの行動を起こすきっかけになってくれればと願うばかりです。

 これを書いて私も、〝今度こそは……〟という思いをあらたにしています。

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